会長様のお誘いに乗り、湯口先輩の後塵を拝しつつ 昭和44年8月時点と平成21年12月の状況をご報告します。学園紛争で騒然としていた昭和44年の夏、別府、岡山電軌、井笠、水島、下津井、玉野、岡山臨港と山陽路の私鉄めぐりをしたあと KAWANAKA氏と呉線にC62、C59を追いかけ夏バテしたことを思い出します。四国連絡の大動脈であった宇野線ですが、電化されてはいましたがD51牽く貨物列車も走っていた時代でした。宇野駅からまず終点の玉遊園地前まで行きましたが、住宅地の児童公園の横で線路はプツンと終わっていて 予想していた終着駅のイメージとは全く違っていて驚きました。
さて40年後の平成21年12月に現地を訪ねてみました。プラットホームは勿論ありませんが、ガードレール、送電鉄塔やその手前の2階屋などが当時と変わっていないのには また驚きでした。
このキハ101に揺られて車庫のあった玉造船所前まで戻りました。三井造船玉野造船所に隣接した小さな車庫で、この日は庫外にキハ103、庫内にキハ104休んでいて、すぐに撮影終了。また造船所側の側線にはクハ201がみじめな姿をさらしていました。
この車庫からほど近い玉駅付近で白砂川なるドブ川上を走るキハ102を撮りました。うしろにナショナル自転車の看板が見えます。あのナショナルは自転車も作っていたのですネ。
現在この白砂川は暗渠となり、緑地化されていますが、線路跡は市営の有料駐車場になっています。またナショナル自転車屋さんも看板こそ質素になったものの盛業中、隣の井上内科も昔の建物を見栄えよく改装はされているものの当時の姿をとどめていました。
途中に交換駅はなく、中間点の古塩浜(こえんはま)信号場で上下列車が交換するというケーブルカーのような鉄道でした。
現在 このあたりは自転車道となっていて 大仙トンネルもそのまま使われています。
再訪が平成21年末でしたので あれから3年以上が経っていて最新情報ではありませんが、建て込んだ市街地の中の線路跡がしっかり残っているのが不思議なくらいです。果たして地元のどれだけの人がここに線路があって、市電?が走っていたのを知っているのだろうかと 自転車で通りかかる若い人を呼び止めて聞きたい衝動にかられたものでした。詳しくは湯口先輩の著書「レイル No.29 私鉄紀行 瀬戸の駅から(上)」をご覧ください。
西村雅幸様
定点対比今昔写真が説明と相まって素晴らしいですね。これは、以前の写真やネガを持参されての撮影でしょうか、それともその場所は行ったことがあるので土地勘がありその場任せなのでしょうか。定点対比撮影といえば総本家さんの十八番ですが、キャンブックス「京都市電の走った街今昔」が有名ですね。総本家さんとぶんしゅうさんと篠山線の廃線跡を探訪の真似事をしたことがありますが、篠山線は行ったことがなく、土地の古老に訊きながら確認をした覚えがあります。今月は台湾で定点対比撮影を考えておりますが、台北や板橋は地下化されており難儀しそうです。
準特急さま
過分なるお言葉恐れ入ります。平成21年末に玉野に行ったときは宇高国道フェリーがなくなるという話があって、一度はこのフェリーに乗って四国に渡っておこうとマイカーで行きました。なので玉野市営のアルバムをクルマに積んで現地で対比して撮影しました。そういう意味でクルマでの移動は荷物が増えても苦にならず ノートパソコンやら図鑑やら地図帳やらを一杯積んでゆくことが多いです。最近はインターネットで航空写真が簡単に見られたり、ストリートビューが出来たりと、出発前の予習が入念にできるのは 隔世の感があります。今月は台湾へ行かれるとのこと 定点対比の成果を楽しみにしております。
西村雅幸様
パソコンに強い人は羨ましいです。私はパソコンの実力がかなり低く、デジ青投稿ひとつとってみても冷や汗ものです。せっかく投稿作品を作っても一瞬にして消えてしまいそれまでの苦労が水の泡ということも経験しております。定点今昔対比撮影は場所にもよりますが激変して撮影不能になるケースもありますね。やはり過去に撮った写真を持参する方がよろしいでしょうね。同じような季節、天候、時間帯で同じ位置に立ち、カメラのレンズの焦点距離を同じにして、同じ場所に列車を止めることができれば完璧でしょうね。クルマの運転もかなり下手なのでわかっている場所にしか行かなくなり、最近は鉄道利用がほとんどです。