阪急京都地下線 開通50周年

いつも乗っている阪急京都線の車両に見慣れぬヘッドマークが付いている。なにやら2300系が描かれたものだ。細かい文字をよく見れば「京都地下延長線開通50周年」と書かれている。P1090564sy

そうか、大宮から河原町へ地下線が延長されてから、もう50年が経ったのか。開業日の昭和38年6月17日のことはよく覚えている。中学校2年生の時だった。ヘッドマークを見て、半世紀前の感慨を新たにしたものだった。

「京都地下延長線開通50周年」ヘッドマークは、9300系車両の3編成に取り付け。絵柄は、当時の主力2300系、描かれた幔幕は、確かに初発の記念列車に取り付けられていた。

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それまでの京都線の始発駅、大宮(地下延長線開通までは「京都」)へ行くのには、住んでいた河原町丸太町からは、ずいぶん不便だった。それほどの距離はないものの、市電では一本で行けない。唯一、一本で行けるのは、市バス3号系統のみだったが、バスに乗るとすぐ酔ってしまう子供時代、できれば避けたかった。そんな訳で、歩いて行ける京阪に比べ、阪急に乗ることは、ほとんどなかった。

それが四条河原町まで阪急電車が延びて来る。なにせ、四条河原町の一角は、当時通っていた中学校の校区に当たる。すぐ近くに、阪急の始発駅ができるとは、何とも嬉しく誇らしくもあった。

延長線の構想は戦前からあった。昭和6年、新京阪鉄道が現・大宮まで延長した際に、河原町までの路線免許を取得していたが、その後の社会の変化で、着工は延び延びになっていた。昭和30年代に入って、その必要性がますます高まり、ようやく昭和36年10月に着工され、市電が走っていた四条通をオープンカット工法で進めた。

工事の進捗に当たっては、京都特有の事情もあった。なかでも、京都を南北に横断する地下の水脈が、地下線で分断され、まだ地下水に頼る時代、生活や商売に支障が出ると大きな問題にもなった。また、烏丸~河原町間では地下街の構想もあったが、地上の商店街、四条繁栄会の反対にあって、あえなく頓挫、単なる地下通路となって今もそのまま存在している。当時、地下街というものは、東京、大阪、名古屋にしかなかった。人口規模では日本第4位だった京都には、都市の象徴として、当然、造られるべきだとの思いがあったが、商店街の反対には勝てなかった。

つい先ごろも、新聞報道によると、今秋の「阪急三宮」などの阪急駅名改称時に、河原町も「京都河原町」改称される予定だった。しかし、またも商店街が「四条河原町」を提示、阪急は商店街との摩擦を避け、改称を撤回したと聞く。

IMG_0001syある方から、いただいた、開業当日の河原町駅、真新しいホームに停車するのは、特急2枚看板の2301F5両編成、2800系の登場はその翌年で、2300系は名実ともに京都線の花形だった。そして、50年後の今年、京都線の新形車両1000系の就役で、いよいよ2300系の歴史にも終止符が打たれようとしている。

開業日は平日だったので、中学校が終わってから、河原町駅のすぐ近くに住んでいる友人とともに、初乗りに行った。四条通の真下に、まっさらのピカピカの駅が出来ていたことに、大いに感動した。金20円を払って、記念乗車券を購入し、20円区間の端の西院まで新線の乗車を楽しんだ。帰りは、20円を節約するため、河原町駅まで歩いて戻った。再び、駅の改札付近をウロウロしていると、“これ、あげよ”と、改札員から、回収済みの記念乗車券をもらった。

IMG_0002sy以来50年、河原町駅の一日乗降数は約6万5千人、阪急全体では、第7位に甘んじている。かつて、乗降客数がピークだった昭和50年代前半は、約9万3千人で、梅田、三宮、十三に次ぐ、第4位を確保していた。約3分の2にまで低下した訳で、目で見ても、はっきり人が少なくなったのが分かる。京都における交通体系の変化、四条河原町付近の商圏の低下もある。春秋の観光シーズンの帰途、ホームが乗客で埋め尽くされた光景を見ることもない。50年間続けた河原町駅ユーザーとしては、少し寂しい思いに駆られている。

京都地下延長線は、阪急の一大プロジェクトだった。各駅に掲げられた告知も、凝ったものだった。下は梅田駅の告知看板。

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IMG_0010syIMGsy当時は、まだ私鉄電車を写真に収める習慣はなかったので、自分の撮影分はなかった。その代わり、新聞の切り抜きを一生懸命して、情報収集・整理に努めていた。いまも京都地下延長線専用の切り抜き袋が残っている。“阪急地下鉄”の文字が躍っている。

IMG_0007sy上は記念乗車券、中央は四条繁栄会の“四条まつり大売出し”抽選券、下は“たち吉”が作った記念絵皿の袋、記念スタンプ。

IMG_0004sy河原町駅の時刻表、特急が15分ヘッドになった。

104_0473sy10年前、京都地下延長線40周年の時は、昼間使わない2号線に2300系を留置し、40周年のヘッドマークを装備、車内で写真展示や記念品の販売があった。

4 thoughts on “阪急京都地下線 開通50周年

  1. 老人は1960年12月山科から塚口に引っ越し、学校には3月のみ阪急で通った。と言っても殆ど登校記憶はなく、親から定期代は貰ったが、確か登校予想回数をはじいて、定期は買ったり買わなかったりした。で、当時の阪急は四条大宮どまりだから、市電1系統に乗り換えて千本通、今出川通とぐるりと回り、烏丸今出川あるいは同志社前で下車。四条大宮からどうかすると小一時間近くを要した。四条大宮駅は何とも薄暗く、東側しか出入り口がない。今では特急(といっても実態は急行可準急並だが)も停車しなくなった。

  2. 先週から「50」に気付いていたが何のことかと思っていた。そうか、河原町延長だったのかと今頃気付いた次第である。あの年、9月15日夜行準急のナハネ10で転勤のため福岡を出発、16日朝には大阪出勤。其の夜は京都の実家に帰った。その週には旦那に会って「阪急どうだ?」と聞いたように思う。以来、在学時代の論争を思い出すも、昭和42年5月連休には西向日町に兎小屋買って転居した。その時、旦那に「裏切り者!」ののしられたが、借金返済で共働き続行となり、京阪沿線には手が出せなかった。住めば都の言い伝え通りで、「京の都より10年古い地に胡坐をかいている!」と言って鼻くそを掘っている。家から高島屋の入口まで25分、都会生活者には便利なところに居を定めたものだと思う。今度旦那に会ったら何を言われるか、楽しみだ。

  3. 懐かしいですね。もう50年も経ちましたか。
    この記事を見て我が青春時代が鮮明に蘇りました。
    京都への長~い(2年)予備校通いを経て、結局京都での縁を掴む事が出来ず横浜へ流れ着きました。
    その夏休み、帰省するや否や早速京都へと足を向けたものです。
    この時、開通直後(1ヶ月後)の地下線で祇園祭りに行った訳ですが、その時見たホームに甚く感心したのを覚えています。
    これは以前某誌にも書いたのですが、市街地のまして古都の地下の幅員制限がある中、ホームを長くして切り欠きを作り、最低限の構内幅員で普通電車の折返し線を1本収容する工夫が成されていた事でした。
    仰せの通り烏丸~河原町には無機質な単なる『地下通路』がありますね。
    かつて焦がれた女の子と歩いたこの地下通路を昨年も通りましたが、虚しさのみが込み上げて来て早々に地上に飛び出てしまいましたよ。(笑)

  4. yuguchiさま、乙訓の老人さま、河 昭一郎さま
    コメント、ありがとうございます。会内外の三賢人から、当時を懐かしむ声を拝見しました。“いま”を生き抜く皆さんにとって、50年前の出来ごとなど、誰も顧みないと思っていましたが、三者三様に思い出をお持ちだと再認識されました。
    河さまもお書きのように、狭い道路の直下にターミナル駅を建設したのは、京阪淀屋橋駅とともに、河原町駅がはしりだったのでしょう。四条通の下で人知れず建設が進められ、ある日、突然に、燦然と輝く地下駅に身を置いた時の感動は今でも忘れられません。

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