とあるニュースの見出し

Yahoo! の見出しに『地下駅の強風、何とかならない? 髪ぼさぼさ「分け目逆に」と不満、その原因は』なんてなのがありました。
最近は記事の購読数を稼ぐために刺激的な文言が見出しとして多用されており、思わずクリックすると、阪急の西院駅と大宮駅のことでした。


画像は下り特急から通過する西院駅を撮ったものです。

記事本体は、以下のURLです。
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200315-11004048-maidonans-life
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阪急、かぶりつきツアー

1dayパスを利用して、主要路線の前面かぶりつきを実施しました。

阪急阪神1dayバス (①~⑧が乗車順序)

阪急阪神1dayバス (①~⑧が乗車順序)

コースは、① 河原町→梅田(京都線)、② 梅田→新開地(神戸線)、③ 新開地→梅田(阪神)、④ 梅田→宝塚(宝塚線)、⑤ 宝塚→西宮北口(今津線)、⑥ 夙川→甲陽園(甲陽園線)、⑦ 塚口→伊丹(伊丹線)、⑧ 天神橋筋六丁目→北千里(千里線)の8路線です。

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阪急655~657

終戦後の国鉄には、多くのAFC、進駐軍用優等列車が走っていました。写真は佐竹さんの作品に多く紹介されています。でも私鉄の、それも阪急にもあったとは知りませんでした。これは沖中さんか藤本さんの分野でしょうな?
私には、横からチョコッと見える国鉄三宮駅上りホームに止まっているオハ35のほうが魅力的です。

ところで「関三平先生のトークショー」が阪急うめだ本店で開かれるそうです。10日14:00から9階「鉄道模型フェスティバル」会場で、無料です。ご参加を!

阪急655~657_NEW 阪急655~657(文)_NEW

阪急京都地下線 開通50周年

いつも乗っている阪急京都線の車両に見慣れぬヘッドマークが付いている。なにやら2300系が描かれたものだ。細かい文字をよく見れば「京都地下延長線開通50周年」と書かれている。P1090564sy

そうか、大宮から河原町へ地下線が延長されてから、もう50年が経ったのか。開業日の昭和38年6月17日のことはよく覚えている。中学校2年生の時だった。ヘッドマークを見て、半世紀前の感慨を新たにしたものだった。

「京都地下延長線開通50周年」ヘッドマークは、9300系車両の3編成に取り付け。絵柄は、当時の主力2300系、描かれた幔幕は、確かに初発の記念列車に取り付けられていた。

P1090565sy

それまでの京都線の始発駅、大宮(地下延長線開通までは「京都」)へ行くのには、住んでいた河原町丸太町からは、ずいぶん不便だった。それほどの距離はないものの、市電では一本で行けない。唯一、一本で行けるのは、市バス3号系統のみだったが、バスに乗るとすぐ酔ってしまう子供時代、できれば避けたかった。そんな訳で、歩いて行ける京阪に比べ、阪急に乗ることは、ほとんどなかった。

それが四条河原町まで阪急電車が延びて来る。なにせ、四条河原町の一角は、当時通っていた中学校の校区に当たる。すぐ近くに、阪急の始発駅ができるとは、何とも嬉しく誇らしくもあった。

延長線の構想は戦前からあった。昭和6年、新京阪鉄道が現・大宮まで延長した際に、河原町までの路線免許を取得していたが、その後の社会の変化で、着工は延び延びになっていた。昭和30年代に入って、その必要性がますます高まり、ようやく昭和36年10月に着工され、市電が走っていた四条通をオープンカット工法で進めた。

工事の進捗に当たっては、京都特有の事情もあった。なかでも、京都を南北に横断する地下の水脈が、地下線で分断され、まだ地下水に頼る時代、生活や商売に支障が出ると大きな問題にもなった。また、烏丸~河原町間では地下街の構想もあったが、地上の商店街、四条繁栄会の反対にあって、あえなく頓挫、単なる地下通路となって今もそのまま存在している。当時、地下街というものは、東京、大阪、名古屋にしかなかった。人口規模では日本第4位だった京都には、都市の象徴として、当然、造られるべきだとの思いがあったが、商店街の反対には勝てなかった。

つい先ごろも、新聞報道によると、今秋の「阪急三宮」などの阪急駅名改称時に、河原町も「京都河原町」改称される予定だった。しかし、またも商店街が「四条河原町」を提示、阪急は商店街との摩擦を避け、改称を撤回したと聞く。

IMG_0001syある方から、いただいた、開業当日の河原町駅、真新しいホームに停車するのは、特急2枚看板の2301F5両編成、2800系の登場はその翌年で、2300系は名実ともに京都線の花形だった。そして、50年後の今年、京都線の新形車両1000系の就役で、いよいよ2300系の歴史にも終止符が打たれようとしている。

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どですかでん様、見つけました!

阪急のアロハ特急についての情報を教えて下さったどですかでん様、TMS181号(1963年7月号)に中島新治氏製作で、阪急800型アロハ特急が掲載されていました。記事にも「当時の常識を破って、黄色と空色の派手な塗り分けで登場して話題をまいた阪急802+805の自作ペーパー製」と書かれています。

目撃者、探しています!

終戦直後に、こんな電車が走っていたとは思いませんでした。これを知っている人はわずかでしょう。阪急ファンでも知らないのでは?マルーンさん、知ってましたか?さらに、写真を持っている(リアルタイムで撮っていた)可能性のある人は、山科でD52のボイラー破裂を見た方とか、四国の私鉄を撮りまわっていた方ぐらいでしょう。