目撃者、探しています! 投稿日時: 2012年11月28日 投稿者: 米手作市 終戦直後に、こんな電車が走っていたとは思いませんでした。これを知っている人はわずかでしょう。阪急ファンでも知らないのでは?マルーンさん、知ってましたか?さらに、写真を持っている(リアルタイムで撮っていた)可能性のある人は、山科でD52のボイラー破裂を見た方とか、四国の私鉄を撮りまわっていた方ぐらいでしょう。 この記事を共有:TwitterFacebook印刷 関連 関連記事: こんなところに能勢電(阪急)が
小学校6年の遠足でアメリカ博覧会に行きました。その時、アロハ電車に乗りました。覚えているのはそれだけです。貸切電車ではなく、一般乗客と一緒で、芋の子洗うがごとくの超満員でした。目まい起こすだけの余裕はなかったと思います。帰路は普通電車とデイ100急行の乗継で帰ったように思います。カメラなど無縁の時代ですから、ご要望に応えられず御免。 返信 ↓
アロハ電車が走っていたころ十三~梅田間は複線が2組でした。京都線からは、そのうちの宝塚線用の方にまず入り、橋のたもとでバックして神戸線に入ったようです。電圧転換が手動であったか児童であったかどうかも知りません。梅田へは行かずに十三で神戸線に移ったのは覚えています。今の三宮発嵐山行き臨時列車は、アロハ電車より宝塚線越えをせねばならず大変です。 返信 ↓
米手作市様 存じませんでした。もちろん!? 昭和25年3月から6月まで「アメリカ博」が西宮球場を中心に開催され好評を博したことは、伺っていましたが・・・ 私なりに調べてみました。 ①京阪神急行電鉄五十年史 同書49ページ神戸ー京都間特急列車運転開始の項に昭和24年12月3日より二連、運転時分70分、停車駅は西宮北口、十三、高槻市、西院の4駅、複電圧対策として、二個の電動車の直並列切換によりきわめて簡単な600V、1500V両用電圧列車の実現をみ、9月中旬数回の試運転を行って予期以上の好成績を得た。運転時分は十三のスイッチバックに3分を見て70分とした。最高速度は京都線で110キロ、神戸線で90キロ程度である。 同じく102ページ戦後輸送復興に邁進の項が始まり、103ページの左上に旧700-750型車両の写真があります。(モノクロ)これが丁度記事のイラスト同様の塗色なのですが、行き先円板部分のカーブラインの塗色が白っぽく写っており色合いが違っているようです。これに関しては104ページに、かねて計画中であった神戸ー京都間の直通特急に使用した車両は神戸線専用の702号・752号および703号・753号の二列車で、阪急独特の複電圧用に改装運転された。とされています。 ②阪急電鉄75年の歩み(写真編) 同書67ページ昭和24年のページに753号を先頭の多分マルーン単色の写真と特別座席が設置された車内写真(ラウンジカー風情)とその下に800系(昭和24年製造)の写真があり、これはまさに関先生のイラスト同じものと思われます。 ③総特派員氏編集協力による、山口益生著「阪急電車」 同書34ページに複電圧による京都ー神戸間の直通特急の写真が(50年史単色の物)掲載 同書95ページに50年史2色塗り分けの写真が掲載されクリームとブルーに塗り分け塗装となった803・853と記載されています。また、同じページには塗色に関しては、昭和25年4月車番を変更のうえ(800番台に)アメリカ博宣伝のため、801~803の3編成がクリームとブルーの塗り分けとなったと記載されています。 以上とりとめのないことで申し訳ありません。 乙訓の大老様 十三のスイッチバックといえば、日本万国博覧会開催中の「EXPO直通」を思い出しました。 2000や3000そして1010型が京都線に乗り入れてきました。ドアスイッチやベルの位置が神宝線仕様は京都線仕様と異なり、慣れるのに手間取った思い出があります。今でもまだ電気系統の位置や空気関係の位置など阪急仕様、新京阪仕様は5100型で統一となる予定でしたが元に戻っているようです。車掌スイッチの位置は統一されているようですが・・・ あの頃は元気な時代でした。 返信 ↓
いやあ、マルーン様、解説をありがとうございます。豊富な資料を紐解き、十分な説明をして頂きました。そういえば、万博の時も直通がありましたね。 でも、この当時としてこの色はどうだったのでしょうかねぇ?カラー写真はないのでしょうね。 返信 ↓
アロハ電車を見て思い出したことがあります。当然、まだ生まれる前のことなのですが、鉄道模型趣味に写真で見たのを思い出しました。記念すべき購入2冊目で1963年7月号でむらさき会運転会の写真で自作ペーパー製アロハ電車がのっていました。しゃれた阪急電車やなと当時は思っていました。それで印象に残っていて思い出したしだいです。その本を手元にこのコメントを書いています。 返信 ↓
小学校6年の遠足でアメリカ博覧会に行きました。その時、アロハ電車に乗りました。覚えているのはそれだけです。貸切電車ではなく、一般乗客と一緒で、芋の子洗うがごとくの超満員でした。目まい起こすだけの余裕はなかったと思います。帰路は普通電車とデイ100急行の乗継で帰ったように思います。カメラなど無縁の時代ですから、ご要望に応えられず御免。
やっぱり目撃者だったのですね!
十三でのスイッチバックはどうなっていましたか?
しかし、長老様でも小六だったのですか。写真は無理ですね。
アロハ電車が走っていたころ十三~梅田間は複線が2組でした。京都線からは、そのうちの宝塚線用の方にまず入り、橋のたもとでバックして神戸線に入ったようです。電圧転換が手動であったか児童であったかどうかも知りません。梅田へは行かずに十三で神戸線に移ったのは覚えています。今の三宮発嵐山行き臨時列車は、アロハ電車より宝塚線越えをせねばならず大変です。
米手作市様
存じませんでした。もちろん!?
昭和25年3月から6月まで「アメリカ博」が西宮球場を中心に開催され好評を博したことは、伺っていましたが・・・
私なりに調べてみました。
①京阪神急行電鉄五十年史
同書49ページ神戸ー京都間特急列車運転開始の項に昭和24年12月3日より二連、運転時分70分、停車駅は西宮北口、十三、高槻市、西院の4駅、複電圧対策として、二個の電動車の直並列切換によりきわめて簡単な600V、1500V両用電圧列車の実現をみ、9月中旬数回の試運転を行って予期以上の好成績を得た。運転時分は十三のスイッチバックに3分を見て70分とした。最高速度は京都線で110キロ、神戸線で90キロ程度である。
同じく102ページ戦後輸送復興に邁進の項が始まり、103ページの左上に旧700-750型車両の写真があります。(モノクロ)これが丁度記事のイラスト同様の塗色なのですが、行き先円板部分のカーブラインの塗色が白っぽく写っており色合いが違っているようです。これに関しては104ページに、かねて計画中であった神戸ー京都間の直通特急に使用した車両は神戸線専用の702号・752号および703号・753号の二列車で、阪急独特の複電圧用に改装運転された。とされています。
②阪急電鉄75年の歩み(写真編)
同書67ページ昭和24年のページに753号を先頭の多分マルーン単色の写真と特別座席が設置された車内写真(ラウンジカー風情)とその下に800系(昭和24年製造)の写真があり、これはまさに関先生のイラスト同じものと思われます。
③総特派員氏編集協力による、山口益生著「阪急電車」
同書34ページに複電圧による京都ー神戸間の直通特急の写真が(50年史単色の物)掲載
同書95ページに50年史2色塗り分けの写真が掲載されクリームとブルーに塗り分け塗装となった803・853と記載されています。また、同じページには塗色に関しては、昭和25年4月車番を変更のうえ(800番台に)アメリカ博宣伝のため、801~803の3編成がクリームとブルーの塗り分けとなったと記載されています。
以上とりとめのないことで申し訳ありません。
乙訓の大老様
十三のスイッチバックといえば、日本万国博覧会開催中の「EXPO直通」を思い出しました。
2000や3000そして1010型が京都線に乗り入れてきました。ドアスイッチやベルの位置が神宝線仕様は京都線仕様と異なり、慣れるのに手間取った思い出があります。今でもまだ電気系統の位置や空気関係の位置など阪急仕様、新京阪仕様は5100型で統一となる予定でしたが元に戻っているようです。車掌スイッチの位置は統一されているようですが・・・
あの頃は元気な時代でした。
いやあ、マルーン様、解説をありがとうございます。豊富な資料を紐解き、十分な説明をして頂きました。そういえば、万博の時も直通がありましたね。
でも、この当時としてこの色はどうだったのでしょうかねぇ?カラー写真はないのでしょうね。
アロハ電車を見て思い出したことがあります。当然、まだ生まれる前のことなのですが、鉄道模型趣味に写真で見たのを思い出しました。記念すべき購入2冊目で1963年7月号でむらさき会運転会の写真で自作ペーパー製アロハ電車がのっていました。しゃれた阪急電車やなと当時は思っていました。それで印象に残っていて思い出したしだいです。その本を手元にこのコメントを書いています。
どですかでん様、
ありがとうございます。TMSのバックナンバーを探してみます。