京阪500型の思い出

関先生の500型を見て なつかしく当時を思い出しました。とは言え250型はすでになく、晩年の500型しか知りません。当時ぷるぷるさんと同じく墨染駅の各停利用者でしたので宇治行きの500型にはよく乗ったものです。1500型を間にはさんだMTMの時代と、両側貫通に改造された550型、580型の登場で4連になった時代にお世話になりました。ぷるぷるさんと一緒に家から歩いて国鉄奈良線の蒸機と京阪宇治線をよく写しに行ったものです。

昭和44年8月16日 丹波橋駅にて 宇治行急行 1500をはさんだ3連

昭和44年8月16日 丹波橋駅にて 宇治行急行 1500をはさんだ3連
宇治急は本線内中書島まで急行、宇治線内は各停だった?

昭和44年8月28日 丹波橋駅北 近鉄とのクロス鉄橋を渡る三条行500型 と2000型

昭和44年8月28日 丹波橋駅北 近鉄とのクロス鉄橋を渡る三条行500型
と2000型
この景色は40年以上経っても変わっていない?

昭和44年8月28日 桃山南口・六地蔵間にて

昭和44年8月28日 桃山南口・六地蔵間にて。 真夏でも窓を開けて扇風機の時代。

昭和45年3月25日 桃山南口・六地蔵間 550,580型をはさんだ4連

昭和45年3月25日 桃山南口・六地蔵間 550,580型をはさんだ4連

宇治線も桃山南口から六地蔵あたりにはまだ田んぼが広がっていたり大きなため池で釣り糸を垂れている人がいたりするのんびりした風景でした。1500をはさんだ3連は模型にもしてみたいなつかしい電車です。

2 thoughts on “京阪500型の思い出

  1. 1926年竣工の500型は良く働きました。600、700、1000,1100型が戦時中へたっていた時も、3扉であることから詰め込みが効くと言う事で、戦時中も休車になったものがありません。1両だけ付随車となった501号車がありますが、戦後の復旧は600、700型先行でしたので、当車の復旧は1949年11月となっています。1938~1940年間に貫通化、3連仕様にしたのですが、2両だけ貫通幌取り付け記録があります。幌を」本格的に装備したのは淀屋橋延長に合わせてのことです。1500型を挟んで運用されるようになったのは戦中、1000,1100がダウンした結果です。更新500型だけで運用されるようになったのは2200系登場の頃で、末期には宇治線で同系5連で走っていた事もあります。1973年から廃車が始まりました。この頃、高松に行く用事があり、琴電本社に立ち寄り、車両課向井さんに「箱だけなら出物ありますよ」と紹介してみましたが、長尾線1500V昇圧の事もあり実現しませんでした。いくら箱だけが望む寸法であっても、駄目でした。

  2. 昭和35年4月から41年3月までの6年間京阪沿線の学校に通学していた関係で500形には大変お世話になり、色々な思い出があります。
    通学時よく利用していた中書島7時9分発の急行は1200+1500+1200+500+500(たまに700+700)でした。1200に比べると500の方が詰め込みが効き、何より扉がプレスで安心感がありました。
    枚方市始発の急行で500+1500+500+1500+500の5連が1本あり、1時間目の授業が始まった頃、香里園~豊野間の勾配をゆっくり上って行くのを見ていました。
    501と502は貫通幌が付いていましたが、使用されずに2連で本線各停運用に就いていました。
    250形も特異な車両だけに16と共に帰宅時に見かけた時には好んで乗りました。500形に挟まれていたことが多かったですが、関さんのイラストの編成もありました。

    関さんのイラストは501が旧塗装であることから、昭和30年代前半、場所は八幡町~橋本間で大阪行各停を後追いで描かれたと思いますが如何でしょうか。

    京阪には昭和54年5月~56年3月まで勤務場所が門真市の時に通勤で利用し、帰宅時に澤村氏と車内で偶然お会いしたこと、枚方市~御殿山間で発生した置石事件の時、偶然当該電車の最後尾に乗車し、難を免れたのは良かったのであるが、枚方市まで戻ったものの代行バスは超満員で乗れず、結局樟葉まで歩いたこと。樟葉から三条方面の電車はオール各駅停車で、行先板は全列車「臨」の円板であったこと等、通学の6年間と併せて色々なことが思い出されます。

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