ついに関先生シリーズで1000系が登場し、また準特急殿の流線形シリーズも佳境に入ってきたところで、半世紀前の拙作をご披露致します。その多くがぷるぷるさんと撮ったものと思われます。
墨染駅利用者にとっての宇治行き各停は日常的にお世話になった電車でした。
伏見区のこのあたりにはまだ田んぼが点在していました。1280や1500をはさんだ1000系4連や500系4連が宇治行きの主役でした。
お盆の頃の撮影ですが、これが名にし負う運転士泣かせのサウナ電車だったのですね。ヘッドライト両脇のルーバーは単なる飾りだったのでしょうか。墨染駅利用者にはあまりご縁のなかった宇治急でした。
ドア横には大阪万博のステッカーが貼られているようです。張り上げ屋根は1280でしょうか。
このため池にはよく撮りに行ったものです。釣り糸を垂れている人もいました。今では想像もできない光景になりました。
狭い窓がずらりと並ぶ2扉車の5連はいいものです。これを編成美と言うのでしょうか。模型作りには泣かされますが。
三条駅の疎水の上の1番ホームから1000系や500系、1300系の各停に乗り、深草で通過待ちをして墨染まで、宇治行き各停には長い間お世話になりました。いつしか700系に姿を変えて、あの個性的な姿は遠い過去のものになりましたが、あのモーター音とともに記憶がよみがえってきます。
西村雅幸さま
半世紀近く前の懐かしい写真を有難うございました。5葉目は確かに丹波橋です。4番線(副本線)へのポイントに差し掛かる辺りで、ほどなく車体が左に傾いてポイントの急カーブをキーキー軋みながら入駅します。
6・7葉目の写真は末期に出現した3連+2連の連ですね。何度か宇治線や中書島駅へ撮りにご一緒しましたね。確か大阪方の先頭車が1010号車だったはずで、ぷるぷるさん達と「先頭は1010」などと冗談を言って笑っていたものです。仰るようにモーター音もいい音がしてましたし、意外と乗り心地が良かったものです。
今から思うとよく三条の疎水上の1番線に4連が入っていたものだと冷や汗をかきます。1000ではなかったと思いますが、いつぞや停まりきれずに京津線や三条南口への連絡通路にまで顔出しした電車もありましたしね。
齢のなせるゆえか懐かしさが募ります。
1900生様
コメントありがとうございます。「先頭は1010」などのエピソードは全く記憶から消え去っていました。ぷるぷるさんの笑顔が思い出されます。1番線はいつのまにかレールが分断されて、頑丈そうな車止めが作られたように覚えています。オーバーランの話も知りませんでした。今なら大騒ぎなのでしょうね。
西村雅幸さま
何故かそんなしょうむない事を憶えているものですね。確かそのオーバーランを機にコンクリ壁が造られたと記憶します。
2両でも御陵(本当は、みささぎなんですけどね:苦笑)とか、言うてましたね。 (^^;)
鉄鈍爺さま
忘れていましたがそういえば京津線に行った時にそんなことを言うてましたね。よく憶えていますね。
西村雅幸様
『京阪の流電』。これは、これは、圧巻ですね。
貴殿の写真を見ている内に、1000、1100形の魅力を今更ながら再認識させられました。
『大昔』関西に居た頃、国電オタクだった小生は大変失礼ながら私鉄を見下していてホボ無関心状態でした。
しかし、デイと共に、この流電には異常に関心が有ったのを思い出させてくれました。
それなのに先の『見下し』が原因で、撮った写真は殆ど無く、今になってガッカリしている所です。
今回の『大量展示』にウットリ&惚れ惚れで、各葉を何度も見直し楽しませていただいております。
貴殿が撮ったローアングルの写真で、前面窓の上部が奥に後退している洗練されたスタイルだった事に気付きましたが、もうチョット奥だったら国電のクハ79形400代の様な空気取り入れが可能で、運転士さんから『サウナ状態』と言われなかったんでは・・・と思ったりしております。
ところでこの流電には後位にも乗務員扉が有りますし、キャブも有ったと聞いておりますが、実際に先頭に出て営業運行した例があるのでしょうか?
又また国電の例で申し訳ありませんが、簡易運転台のモハ70やモハ80等のように構内専用だったのでしょうか?
それにしては、乗務員扉まで付けるのは無駄?と思うは『浅はか』でしょうか?
河様
惚れ惚れ御覧頂くようなものでも、圧巻でもありませんが、下手な写真でも半世紀経てば そこそこの記録写真にはなると感じています。身の回りの日常風景の記録に心がけたいものです。1000,1100がなぜ両運だったのか、後位を前にして走っている写真を見たことがありませんが、この件は電車に詳しい諸先輩の蘊蓄を待ちたいと思います。私が乗客として乗っていた頃の車内の様子ですが、簡易?運転台はなく、かと言って座席もなくて、ガラーンと広いスペースがあったように思うのですが、よく覚えていません。後位も緩い曲面ですから貫通扉も横引きの扉ではなく、蝶番で旋回するドアだったような・・・。1300型などとごちゃごちゃになっている気もします。1900生様、助けて下さい。
西村雅幸さま
実は小生も1000・1100にまつわる「何故」についてはよく知らないのでジッと沈黙しておりました。
まず両運については連結運転が少なく1両毎に異系列とも編成が組める便利さなどから、当時の京阪の車両設計思想としてはごく自然のことではなかったかと思います。とはいえ社史によれば「連結運転用に新造した」ということになっていますから、やはり?の部分は残ることになりますが。ただ長らく1両単位(単車で運転するという意味ではない)での運用を行って来ていたので、狭い守口車庫内での入替用位の考えで設けた可能性も十分にあると思います。近年ATSなどの運転保安機器類の増加により設備費が増えるようになってから、長編成化と相まってなるべく無用の設備は設けない設計になってきました。因みに簡易運転台という概念は長編成化が進んでから普及したもののように思います。
次に肝心の「単車で営業したのか」という点については見聞きしたことはありません。ただ小生が知らないだけかもしれませんが。やはり京阪考古学の諸先輩しかご存知ないと思います。
後部運転台についても知識はないです。同車に乗った際には当然のごとくというかバカの一つおぼえというか、必ず先頭運転台にかぶりついていましたので。ですから同車の運転台は片運転台で、横の車掌台は解放されていて前面窓まで立ち入れたことははっきり憶えています。そういえば「びわこ号」も同様でした。
答えにならず申し訳ありません。
西村雅幸様
始めにいつも広島方面を中心とした情報をデジ青上でご披露いただき頭が下がる思いです。私の方も今後は実際に見たり、記録した関東情報を少しは披露していきたいと思います。さて、京阪1000、1100系は元地元とは言えよく撮られていますね。高橋弘さんの頃の全盛期の姿はとても間に合いませんでしたが、私の頃は5~6連で急行にも使われていました。川向うではもっと古豪のP-6が6連の急行で走っていた頃です。1000(1100)系はローカル運用で500系と同じような運用で3連で走る姿を数多く見ております。西村さんの写真は私が居なくなった昭和44、5年の4~5連が多い様ですが1000(1100)系の2連+1000(1100)系の3連は珍しく思います。私はキャッチしたことはありませんので尚更そう思います。流線形のみならず鉄道車両には乗務員、特に運転士に不人気、、ファンには大人気という車両は結構あるようです。
準特急様
いつもコメントを頂きありがとうございます。もともと電車ファンではないこともあって、フィルムの時代ですから積極的に撮っていませんでしたが、昨今のようなデジカメ時代だったら手当たり次第撮っていたことでしょう。確かFUJIMOTO先生が1000型だけの3連の写真を以前デジ青で紹介されたような記憶がありますが、いまどきの規格化されて味気ない電車ではなく、昔は珍編成が時々見られて楽しかったものです。準特急様が丹念に地元を歩かれている成果をデジ青上で拝見するのを楽しみにしております。
西村雅幸様
後位側の室内での様子は貴重な話です。 実際に乗っておられたからの体験談は説得力が有って感心するのみです。
ですが、中は運転機器も無くガランド―だったとの事。
両運車を片運化する例は良くあり、その場合はシートは無くとも客室化する事が多いのに、お話では客室として解放されてはいなかった訳ですね。
ところで、先の小生のコメントの『サウナ』は時代考証的には『蒸し風呂』が正解ですね。
また、『デイ』は『P6』の誤りです。
河様
ガランドーの話はあやふやな記憶の産物ですから、お忘れ下さい。そのうち確かな情報が降ってくれば良いのですが。