こんなんあるでぇ 投稿日時: 2009年10月27日 投稿者: 米手作市 例によって撮った時期はあいまいですが、昭和48年1月頃です。同行者がいますので覚えていれば確定できます。 早朝に通勤客や通学客で混み合う?南大嶺駅 この記事を共有:TwitterFacebook印刷 関連 関連記事: こんなんあるでぇ!シリーズ こんなんあるでぇ(再登場) こんなんあるでぇ
大嶺ー南大嶺間はD51が牽く客車1両だった頃ですね。数年後には厚狭区のキハ20に置き換えられます。 この盲腸線はかつて大嶺が炭坑の関係で終点だった名残です。昭和53年頃でも露天で掘っていたと思います。この線は最初に厚狭から大嶺までが山陽鉄道の直轄で開業しました。大嶺炭坑の無煙炭採掘が喫緊の目的でした。開業当時、南大嶺は伊佐という駅名でした。 ここから重安までが美禰軽便鉄道で開業し、その後日本海に面する正明市(長門市)まで延伸し全線が開業します。 かつては山陰線のDC急行が3分割し、滝部回りの山陰線と美禰線回りと山口線回りに分かれてまた併結と、鉄道マニア好みの運用などありましたが、新幹線開業と自動車の天下になり、この線区も「忘れ去られたレール」になりつつあります。 返信 ↓
大嶺ー南大嶺間はD51が牽く客車1両だった頃ですね。数年後には厚狭区のキハ20に置き換えられます。
この盲腸線はかつて大嶺が炭坑の関係で終点だった名残です。昭和53年頃でも露天で掘っていたと思います。この線は最初に厚狭から大嶺までが山陽鉄道の直轄で開業しました。大嶺炭坑の無煙炭採掘が喫緊の目的でした。開業当時、南大嶺は伊佐という駅名でした。
ここから重安までが美禰軽便鉄道で開業し、その後日本海に面する正明市(長門市)まで延伸し全線が開業します。
かつては山陰線のDC急行が3分割し、滝部回りの山陰線と美禰線回りと山口線回りに分かれてまた併結と、鉄道マニア好みの運用などありましたが、新幹線開業と自動車の天下になり、この線区も「忘れ去られたレール」になりつつあります。