2300についての思い出を少し綴ってみたい。と言っても、記憶も記録も断片的なものしか残っていないが。
私が少年だった頃の阪急京都線は、暗くて陰気な印象しか残っていない。まだ京都側の始発が大宮(当時は京都)だった時代で、遠くて駅まで行くのがたいへんな不便を強いられた。やっと着いた大宮駅は、暗くて狭くて暑苦しい地下駅で、乗った電車も地味な色で、しかも特急と言えどもロングシートに当たることも多く、とにかく華のない電車で、国鉄、京阪に比べて全く魅力がなかった。
そんな暗くて陰気な阪急電車を、すっかり変えてしまったのが、2300のデビューであり河原町への延長だった。2300デビューは、実際は昭和38年6月の河原町延長の2年半前だが、京都の少年にとっては、この二つは同じ時期の出現に映った。
突如、四条通に現れた地下の河原町駅、大宮と同じ地下駅だが、蛍光灯が燦然と輝き、きれいで明るく広い、しかも歩いて行けるほどに近い。初日に勇躍初乗りしたのが2300だった。ロングシートは残念だが、窓は大きく、車内も明るい。“オートカー”と言って、自動的に速度を定格速度を保つと、新聞は報じていた。“電子頭脳”の惹句が何やら新時代の到来を感じさせた。2300の出現は、阪急のイメージをすっかり変えてしまったのだった。
▲昭和38年6月、河原町延長の初日、ホームに停車する2300をある方からいただいた写真で再掲載してみた。2301先頭のWヘッドークつき特急、2300デビューの頃の象徴的なシーンだろう。しかし、その座は長くは続かなかった。 ▲初めて撮った2300がコレ、約50年前の昭和41年、大山崎で国鉄線と併走しながら河原町へ向かう2300急行。デビュー当時、特急運用に就いた2300も、その後継のクロスシート車2800が昭和39年にデビューし、増備が続くと、早くも特急運用の座を譲り渡すことになる。その間、わずかに4年程度で、そのあとは、京都線のトップランナーになることはなかった。この日の撮影目的も、デビュー間もない2800と、デイ100だった。