見学会&廃線巡り&大宴会 酷暑のなか行なわれる

夏真っ盛りの京都、最高気温38.5度を記録した8月1日、クローバー会の公式行事として、「電車王国」見学会、京津線廃線跡巡り、そして大宴会、と豪華3本立ての催しが行なわれました。その一端を手短に特派員レポートとします。

京都市岡崎のみやこめっせで行なわれている「電車王国」という大仰なネーミングの催し、タネを明かせば、乳幼児向けのNゲージやプラレールの運転ですが、その末席を当特派員制作の京都市電の写真展でお口直しをすることになりました。わざわざ来ていただくほどの値打ちはないものの、マルーン会長や86事務局長さんの肝いりで、公式行事として扱っていただくことになりました。15時、会場前に集まったのは16人、「視察」名目で入場料600円のところ、特別入場口から無料入場を果たすことができました。
P1090397s京都市電の写真展を見学をする面々、乳幼児とその親ばかりの会場に、突如、全員60歳以上の老齢者集団が会場に乱入したものだから、最初は、会場全体が凍りついたような雰囲気が漂ったが、そこは、すぐに溶け込めるクローバー会員、和やかななかにも、真摯な姿で写真展を見学をしていた。
約45分の見学ののち、次は近くの京津線廃線巡りに出発しました。もちろん廃線と言っても、地下化による地上線ではなく、開業時の迂回ルートの旧線を指しているところが、老練者集団らしいところ。東山三条東の古川町から出発しますが、もちろん現在では、ほとんどが宅地化されて痕跡らしいものはなく、道路を歩きながら、家の向きの違いを見つけては大喜びするという、まるで怪しい集団と化しましたが、一般市民からは通報されることもなく、炎天化の道を2キロ近く走破し、無事、ゴールの蹴上に到着しました。老人ばかりが炎天化を徘徊すれば、一人や二人の熱中症患者が出てもおかしくない状況でしたが、全員元気に到着できたのは何よりでした。そのあとは、競うようにして、一番の目的である宴会場へと向かい、ギンギンに冷えたビールで乾杯して、3本立ての締めくくりとなりました。

見学会&廃線巡り&大宴会 酷暑のなか行なわれる」への4件のフィードバック

  1. 総本家青信号特派員様
    おはようございます。早速レポート頂きありがとうございました。京都市電の写真展、京都いまむかしで、市電が走っていた時代と現在の対比が素晴らしく、また昭和30年代の貴重な写真の数々、楽しませて頂きました。急行市電、連結市電など懐かしく拝見しましたが、学生時代京都駅から乗るときに連結市電を選んで乗っていたと思っていたのが、実は、私の入学のときは廃止になっていたとのことで、乗っていたのはその前の年、同じ烏丸通り、鞍馬口にあった某有名予備校に通っていた時だったという事がわかりました。また、家族連れの方が写真を前に昔はこうだったのだと話し合っておられたのが印象的でした。
    旧線めぐりはとにかく暑くて、後のビールのために頑張って歩いたようなものでしたが、三条通りの旧線ではなく、さらに昔の旧線があったのを今回始めて知り、興味深く感じました。
    懇親会では飲み放題のビール、日本酒、焼酎、ワインが飛び交い、皆様お元気で、ますます酒の量が増えたのではないでしょうか。ちょっと心配しましたが、皆様無事にお帰りになられたようで一安心しました。

  2. 総本家青信号特派員様
    一つ忘れていました。参加いただいた方は当日参加された方が1名ありましたので総勢17名、懇親会は16名の方が参加されました。

  3. 暑い中よろよろと京津線旧・旧線歩きの殿を務めさせていただいた老人だが、この線の事を知ったのは鼻の治療で三条花見小路東の耳鼻咽喉科に通っていた時、ふと知り合った爺さんとの会話からであった。「昔、京津電車は三条通りの真ん中ではなく、疏水の方から回り込んで古川町で東海道に合流していた」と。びっくりであった。電車は東海道を広げ三条通りを走っているのだと思っていたから、爺さんに古川町の入口まで連れて行ってもらい、白川沿いで別れた。川の西岸は畑になっており、夏野菜である茄子と胡瓜の収穫期であった。それにまして眼が行ったのは鶏頭(けいとう)、ほうずきの真っ赤な花畑であった。その後に爺さんに耳鼻科で会った時、「赤い花はなんでや?」と尋ねたら、夜店で売るため植えて居る人がおるのや」との返事があった。その川岸を伝い歩きして疏水本流を前にして製氷工場に行き当たった。
    老人はこの工場とも思い出がある。小学校6年の時、京都新聞社発行の「子供新聞」の記者をしていた。夏休みを前に夏の取材テーマについて少年少女の記者10人ばかりで提案合戦をしていた。老人は「熱いもの代表は蒸機機関車の運転室、涼しいものは動物園近くにある製氷所」を提案、目出度く採用となった。後日談はまたとして、この辺りも京津線の旧線跡であることなど全く知らなかった。以上がDRFCが出来るまでの話。
    結婚後はしばらく鉄道趣味関係のお付き合いはDRFCに限定していた。たぶん1985年だと思うのだが、ローハイドこと大西顧問から呼び出され、あれこれ昔話をする中で、京津電車の旧線跡が話が出てきた。顧問は京津電軌の総会報告資料の一部分を古本屋筋から入手しており、欠けていた事業内容などをを追うことが出来た。この時、顧問に見せられた日の出新聞の開業広告で、ふと思いついたのが日の出新聞旧号の閲覧であった。京都新聞に行けば府立資料館に一式寄贈したという。ならばと思い行ってみたら、大正10年の京都市都市道路地図があり、その「祇園」に旧線跡がくっきり示されており、やっとわかった。これで1991年に路面電車同好会誌で発表することが出来た。馬鹿につける薬なしと言われているが、今思えば高校3年夏休み(1956年)に鼻柱骨湾曲症の手術をしているが、その時に古川町の爺さんと知り合い、1985年は調査再開、その結果を1991年に発表、それを今やっと、2015年にDRFCの諸兄に披露することが出来てうれしく思っています。馬鹿につける薬の一つがポロリと落ちたように思う。

  4. 役員の皆様、
    暑い中、お疲れ様でした。
    当日は同志社高校の同窓会理事会のため、やむを得ず、イヤイヤ、後ろ髪を引かれつつ見学会だけでお別れしました。旧線見学では酷暑の中、大先輩や超先輩方の息も絶え絶えながらも死力を振り絞っての行軍を見て思わず手を合わせてしまいました。しかし、元気でんなー!
    おかげでおいしい食事も、冷たいビールにも縁のない会議を済ませて一人寂しく地下鉄で帰りました。

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