玉電の80型の話が京阪の80型の話に拡がっていますね。丁度1年前に錦織で写した写真がありましたので、大津のハチロク様をさしおいて恐縮ながら アップしてみました。
確か82号はすでに京阪から第三者の手に渡っているのに、しばらく置かせて欲しいということで置いてあったとどなたかに聞いたように思います。手狭な車庫故京阪も迷惑だったようです。ようやく搬出されていたのですね。この時点でも塗装が剥げて錆が浮き、せっかくの美男子が可哀想な状態でした。
ところで 81号の頭部だけが保存されていましたが、これは今もあるのでしょうか。これは何のための保存なのでしょうか。この81号はきれいな状態でしたが。
こうして改めて見ると 片運に改造される前のポール時代の方が格段にかっこ良かったですね。
西村雅幸さま 大津の86さま
またまた懐かしい写真をありがとうございます。
この80型の前頭部は、こういう形で残すのが好きな方が京阪におられたからだと聞いています。同様に叡電のデナ21型の前頭部が鞍馬駅前に残っています。
京都市地下鉄東西線への乗り入れに伴い、600・700型を除いて殆どの車両が廃車されましたが、今回話題の81・82号車と350型2両が残されました。厳密には93・94号車も残され、廃線後に旧京津三条駅で行われた部品バザールに出品されたものの、やはり買い手はつかずその後解体されています。
残された車両はしばらく浜大津駅南側の側線に留め置かれていました。なんでも地下鉄乗り入れによってもし石坂線の乗客が増えた場合の車両増備に備え、そのタネ車にするとのことのようでしたが、現有車両で賄えることがわかって数年後に解体されています。
ところで写真の前頭部ですが、本来菱形のパンタが半分切り取られて、シングルアーム?になっているように見受けられますね。仕方なくカットしたのでしょうが、なんとも手の込んだ細工をしています。
1900生様
さっそくのコメントありがとうございます。鞍馬のデナ21の件は知りませんでした。大津市歴史博物館に形式や車番は失念しましたが、運転台の一部とロングシートが保存されています。普段は収蔵庫の中にありますが、鉄道関係の企画展やイベントのときに利用したとK学芸員氏から聞きました。
お世話になったK学芸員ですが、昨日、久しぶりに新聞で活躍の様子を知りました。館が「小菅のジープ」と言われる、戦後最初のブリキ製の玩具を保管しており、そのセミナーを開催したというニュースのなかに、説明するKさんの姿がありました。玩具を作った小菅さんという人は、大津に疎開し、そこで見た進駐軍のジープを見たことが作るきっかけになったとのことでした。
80型の車体、ぼろぼろの姿でまだ残っているのでしょうか?痛ましい思いがいたします。一昨年だったと思いますが、久しぶりにラッピングで錦織へ行った時はどうだった良く覚えていません。哀れな姿をさらして居るのであれば車両部としてなんらかの処理をしてほしいと思います。老人の記憶に残る話としては、とある東京の新進の企業家が1両購入を申し出たとかで、それが元で1編成残したようです。企業家は模型制作も好きだったようで、今は閉鎖され(亡くなった)JR尼崎駅北口のビル2階で模型屋のオーナーでもあったと、思われます。
老人は車両部の方に紹介されて3回だったと思いますが企業家に会ったこともあります。記憶では企業家が東京の某ビル内で展示、看板代用にする予定だったようです。その後、車庫で会ったときは近々東京に運ぶように言っていたように思いますが??。車両部の当事者は退社しておりどうなったのでしょうね。老人の友人も関係していたようですので心配なことですが、記憶はうすれて行くばかりで、金銭の支払いが京阪とあったので「暫く預かりましょう」となったものの、企業家の失敗で勝手に処分するわけに行かずとなったのかもしれません。これ以上のことは申し上げるのは、当事者ではなく、たまたま耳にしたことですので遠慮させて頂きます。