国鉄清水港線

総本家青信号特派員さんの9月9日付[75019]「18きっぷで東海道を巡る-2-」のコメント欄で西村雅幸さんより静岡鉄道清水市内線に関連して近くの国鉄清水港線が不便さもあって乗れなかったと告白されていた。西村さん、まずはカープ優勝おめでとうございます。それに比べてタイガースという球団は最低でいつぞや10数ゲーム離していた巨人に追いつかれて優勝をのがし、今シーズンも本拠地甲子園で巨人に勝ったことがないという体たらく。

本題に移るが、何度となく乗った東海道本線であるが清水で降りて路面電車を撮影したことがない。オールラウンドプレイヤーとは言え総本家さんはよく撮ったなと脱帽である。さて、清水港線は昔C50が客車を牽いていたような記憶があり、その存在は知っていたが、結局乗ったのは廃止直前の1984年3月11日でその時の数カットである。

尚、この月は同時期に廃止された新潟県の赤谷線、魚沼線の乗り鉄を行っている。

静岡鉄道管理局の製作したヘッドマークを付けたDD13141  バックに富士山が見える s-84-3-11%e4%b8%89%e4%bf%9ddd13141%e3%81%9d%e3%81%ae%ef%bc%91

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国鉄清水港線」への8件のフィードバック

  1. 準特急様
    こまめな努力は必ずいい結果が出る、見本ですな。
    よくぞ行きましたね!
    私は和田岬線さえも行ったことがありません。
    写真を見ると客車はスハフ42でしょうか、重量級が連なっています。前田憲三君が「愛する会」を作って「ズシンズシン」という走行音を口走っていたのを思い出しました。

  2. 準特急様
    私の脱線コメントに対して 直ちに貴重な写真のご披露で応えて頂き感激です。ありがとうございました。富士山のカットは三保駅なのでしょうか。廃止直前とは言え しっかりと訪問されているのはさすがです。古い配置表を見てみると 沼津機関区にC50だけが多数配置されており、吉原、富士、蒲原、清水など東海道線各駅の入換えと清水港線に出張って来ていたと思われます。ご記憶の通りです。私も中学校の修学旅行で沼津から京都へ帰る普通列車からC50を見ています。客車の方ですが 昭和40年には静岡運転所清水派出所にオハ31、スハ32、オハフ61、スハフ50が各1両配置されていますが、晩年はオハ47 2両とスハフ42 3両に代わっています。米手作市様のご指摘通りです。富士山のカットでは客車を5両つないでいますから、配置車全車をつないでいたことになります。この5両すべて2000番台の電気暖房仕様車です。昔の蒸気暖房時代は何も問題なかったでしょうが、DD13には電気暖房するほどパワーがないでしょうから、短区間なので暖房はしていなかったのかもしれません。なおDD13は静岡運転所の所属です。「ズシンズシン」というあの何とも言えない重量感や 青いモケットと薄いグレーのペンキがこってりと塗られた角が丸い背もたれの端(ヘッドレスト)がなつかしいです。いずれにせよ このように貴重な写真がすぐに登場してくるデジ青のすごさを今回も感じさせて頂きました。カープで盛り上がる広島からのコメントでした。

  3. 米手作市様
    有難うございます。メモによりますとスハフ422105とあります。ズシンズシンはどなたが言われたかよくわかりませんが、うまい表現と思います。側線でオハ472081というのも撮ってありました。C50のほか3軸ボギーの客車も入線していたように記憶しておりますが定かではありません。気動車の入線は記憶にはありませんが、これも定かではありません。

    • 準特急様
      客車ですがオハ47が2080,2081の2両、スハフ42は2105、2184、2286の3両が晩年は配置されていました。3軸ボギーの方はよくわかりませんが、静鉄管内の3軸ボギー車は沼津区のスヤ3911とスヤ3921しかなさそうです。マロネ58改造の工事車です。清水港線のどこかに留置されていたのかもしれません。「書くことは確かな人を作り、読むことは豊かな人を作る」という誰かの言葉がありましたが、しっかりメモしておくことの大切さを改めて感じました。こういうことは若い頃に身につけておかないと、今からではムリなのであきらめていますが・・・。

  4. 西村雅幸様
    今は二児の母親になっている娘を連れて清水に行きました。メモを確実に取っておらず列車の撮影は三保駅ではないかと思います。清水駅での乗車は東海道本線のホームではなく、国分寺にあった元の下河原線(東京競馬場行き)の様なイメージが残っております。三保駅もほとんど記憶はありませんが、当日は快晴で三保の松原で天女の羽衣の松の木を見に出かけています。清水港線は清水を朝8時10分に出て帰りは三保16時14分発で清水に戻ってくる1往復のみで娘をつれて8時10分発には自宅からは間に合わず、清水界隈に泊まった記憶もないのでおそらくお別れのイベント列車に乗りに行ったものと思われます。3軸ボギーについては古い趣味誌で見たような記憶がありますが調べてみます。C50はハチロクの改良型と言われていますが、製造両数はずっと少ないなかで特に東海道、山陽筋での入換えの姿が印象に残っています。

  5. 西村雅幸様
    鉄道ピクトリアル1961年~69年の読者短信やTOPICを探してみましたが3軸客車の清水港線入線は見当たりませんでした。配置表にもなければ走ったことはないでしょう。痴呆が進んでいるようで申し訳ありませんでした。なお、同誌の1962年4月号の読者短信欄では「国鉄清水港線にDD13が現れる!」と題して投稿があり2月15日からそれまでのC50からDD13に変更された旨記述があり14日まではトムやワムに混じって、オハフ61やオハ31が使用され先頭にはC50がついていたがこれも14日限りで消えたとあります。

    • 準特急様
      わざわざ古いピクのバックナンバーを探して頂いたようで恐縮です。戦後の混乱期にはとりわけ盲腸線のような線区には怪しげな客車がいたことでしょう。3軸客車もいたかもしれません。娘さんの手を引いて遠路お別れ列車に乗りに行かれたその行動力に脱帽です。

  6. 清水港線の巴川口駅から徒歩で20分程のところに18歳迄暮らして居ました。幼少の頃から愛着のある路線で記憶の限界辺りにC50が巴川の可動橋をゆっくり渡って行くのを見た記憶があります。C50からDD13になってからも在って当たり前の存在でした。廃止されて37年以上ですね。今でもなくなったのがとても寂しいです。

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