地図を携えて線路端を歩いた日々 -3-

夕陽にC55のスポーク動輪が透けて見える。本数の多いこの区間で初めて流し撮りも試みた。

B地点

折尾~中間のハイライト区間であるB地点の立体交差付近について写真を続けます。
前回投稿のコメントにも記しましたが、複々線区間の開業時は二つの鉄道でした。若松を始発として折尾を通り、中間・直方へ向かう筑豊本線は、明治24年に筑豊興業鉄道として開業、これにより、水路に頼っていた石炭の輸送は、鉄道で若松港まで運ばれます。のちに若松は日本一の石炭積出港として発展しますが、増産される石炭は、若松だけでは賄いきれず、その前に開業していた九州鉄道(現・鹿児島本線)は折尾付近で、筑豊興業鉄道への短絡線を設け、連帯運輸を始めます。同時に、別々に設けられていた折尾駅も、現在のように共同駅として筑豊本線、鹿児島本線の交差地点に移設されました。複々線の誕生で、従来の若松だけでなく、九州鉄道経由で、戸畑、門司でも石炭の積み出しが行われ、また八幡製鉄所への石炭輸送も担うようになります。これによって、明治40年の両線の国有化の頃には、鉄道収入の半分以上は石炭輸送で占められる、黄金期を迎えたのでした。


D5090〔若〕の牽く682レ、D5090のデフでは、K-7形と称される小倉工場製の切り欠きデフだが、やや大型のデフを装備していて、下辺がやや斜めになっている。撮影時点でのD50の有火機は若松区の4両のみで、希少価値があった(昭和44年3月)。逆行で一般貨物を牽く69646〔若〕、短区間の列車では、客貨ともテンダー機でも逆行運転が多く見られた(昭和45年9月)。
複々線上を行くホッパ車、筑豊では石炭だけでなく、香春岳に代表される石灰石の産出地でもあり、底開き式ホッパ車による石灰石輸送も大きなウエイトを占めていた(昭和45年9月)。
鳥居を見て、築堤を駆け上がるC5557〔若〕の牽く737列車、同機は典型的な九州のカマ、調子が良いらしく、よく見かけたものだ。のちに鹿児島区に転属、最後のC55として、昭和50年まで生き延びた(昭和46年12月)

石炭を満載して立体交差部に掛かる660レ、49619〔直〕(昭和46年12月)

 

 

 

 

 

 

 

 

 


気動車列車も時折走っていた。これは10両編成の1732Dで、旅客も旺盛な輸送量があった時代だ。26・55系、10系、35系と、扉数、塗色、車幅と、一両ごとスタイルが異なる、気動車ならではの多彩な編成(昭和46年12月)。
 無蓋車+石炭車の空回687レ、D6061〔直〕が牽く。久大線の無煙化で、大分区から直前に転属して、さっそくの活躍(昭和46年12月)。 立体交差部から東南方向を見るとボタ山が見え、ちょっと異様な光景を見せていた。693レ、69632〔直〕(昭和46年12月)

立体交差地点の池を手前を行くホッパ車の空回、49675〔後〕の牽引。
49675〔後〕の牽くホッパ車の空回 (昭和44年3月)。同じく池の向こうを走る1735列車、C5552〔若〕。上下が可動式になった大型の門デフを装備、K-6形と言われる唯一の装備機、その後吉松区へ転属し、下部デフの後半部が切り取られ、さらに独特のスタイルになった。現在は吉松駅前に保存中(昭和46年12月)。

 地図を携えて線路端を歩いた日々 -3-」への2件のフィードバック

  1. 総本家青信号特派員様
    コメンテ-タ-は相変わらずまた私で代わり映えしなく恐縮です。
    内容ですがどれもよく煙が出ていて「蒸機の時代」の編集長からまたまた声がかかりそうですね。西村さんの前回のコメントでは北海道、東北へ出かけたことが多いが九州は1回だけとありました。専用線や石炭関係なら北九州も遜色はないと思います。総本家さんは大型蒸機がお好きであったと思いますが、機関車の綺麗さは断然九州に軍配が上がります。加えて門鉄デフと呼ばれたドイツ風の除煙板をつけたライトパシフィック機(C55、C57等)は魅力的でどうしても足がそちらに向いたのも事実です。北海道は厳しい寒さでD51等は密閉キャブに改造されたり、重油タンク、前照灯横の予備灯、切り取りデフ等々晩年には改造が進みとても綺麗とは言えませんでした。ただ雪の多い寒冷地であったためスノープローを付けて雪を蹴り上げて進入してくる姿やスポーク動輪に雪を付けた姿は南国九州にない北海道の魅力そのものでした。九州では煙突の横に煙色試験の装置がある機関車が多かったですが、これはどういう訳かあまり悪評が立たなかった様に思います。ボタ山の写真もよく撮られましたね。「青春の門」に出てくる香春岳が有名ですが、北海道にはボタ山はあったのでしょうか。私のボタ山は後年中国瀋陽郊外長兵山で撮ったくらいです。地図利用に伴う筑豊の思い出有難うございました。次回以降も期待しております。

  2. 準特急さま
    相変わらずのコメント大歓迎です。ありがとうございます。
    蒸機の場合、確かに北海道派、九州派があったことと思います。いわば、蒸機の力闘ぶりを撮るのか、蒸機の美しさを撮るのかの違いでしょうか。それと、いまと比べてアクセスのこともあって、比較的、首都圏のファンは北海道、関西のファンは九州へ足が向いたことと思います。いずれも夜行に乗れば、翌朝に着いて、まる一日行動できたのですから、その点は今より、もっと効率的でした。

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