謹賀新年 ことしもよろしく!

明けましておめでとうございます

何がめでたい?と内心は思っていますが、世間に合わすのも年寄りの務めと心得ている年の初めです。

年賀の挨拶も今更白々しいので、福笑いならぬクイズを投稿します。
ネットで検索すれば答えは簡単に出ると思いますが、そこは誇り高きDRFC会員、そんな手は使わずに、ここだと思うその根拠を述べた上でお答えください。
これは年末に友人がくれたコレクションです。ほとんどが車両の写真を書き起こした物ですが、一部は鉄道写真を使っているようです。では、どこで撮られた写真を使っているでしょうか?線名とだいたいの場所を教えてください。会員なら機種と風景で大体の線区は絞り込めると思っております。
①右上縦型 C11の描かれた物
②その二つ下 ED70の描かれた物
③真ん中の列の一番上 D52
④その下 C58
お正月、おせちとお酒でぼけた頭を活性化して今年一年を健康に過ごしていきましょう!

謹賀新年 ことしもよろしく!」への24件のフィードバック

  1. 米手作市さま
    下戸の小生にとっては少しでも正月のお酒が入るとすぐに眠たくなるのですが、その眠たい目をこすりながら当ててみたいと思います。なお②と③はわかりません。
    まず①C11は只見線滝谷だろうと思われます。会津若松発の列車が滝谷を出るとすぐに右にカーブしながらこの鉄橋にさしかかります。只見川の支流を渡りますが、高さが相当高く真横から見ても中々のアングルになります。鉄橋を渡るとすぐトンネルですが、そのポータルの上からこのような発車シーンを撮ったことがありました。鉄橋の枕木を歩いて渡りましたが、時折足がすくんで恐怖心と戦いながらの記憶があります。
    ④C58は特定に至りませんでした。場所としては五能線の大間越~白神岳登山口間のように思えますが、五能線にC58が走ったとは承知していません。9600のはずでしたから別の場所かもしれません。C58から推測すると、先の地震で被害を受けた釜石~宮古間の可能性がありますが、この間にこういう景色は無かったように思いますから、自信はありません。
    以上、ご参考になれば幸いです。正月早々宿題をお出し頂きありがとうございました。

  2. 回答第一号、ありがとうございます。①については、あとどなたかが同じ答えであれば正解としましょう。C11やC58はどこにでもいたカマですからなかなか特定は難しいかもしれませんが、旅慣れた会員であれば風景から分かるのでは、と思って出しました。
    続いての答えを待っています。

  3. 米手作市様
    ゲーム感覚で参加させていただきます。
    ①は只見線と思いますが、多分、自信を持ってご説明された1900生さんのご指摘のとおりの場所と思います。
    ②赤いED70のサイドはいいですね。バックの山は白山連峰か当時の交流から直流にかわる田村付近の伊吹山(望遠レンズでとらえた)を考えてみました。私は白い山はエイヤーで伊吹と見ました。
    ③北海道函館本線の大沼手前にもカーブがありましたが、D52は室蘭本線にも入っていましたのでこれもエイヤーで豊浦付近の礼文華海岸としましたがどうでしょうか。
    ④いい加減で回答になっておりませんが、八戸線か山田線のどこかと思います。両線ともまだ乗車経験がないので申し訳ありません。
    こんな訳でどうでしょうかどなたかもうお一方でも回答してください。

  4. 私も遅まきながら参加いたします。
    ① C11 1900生さんのお書きの只見線滝谷ですね。私もこの鉄橋を渡ってC11を撮ったことがありますから覚えています。
    ② ED70 バックの山は、特徴ある山容から伊吹山でしょう。すると、最も近い交流区間として、北陸線の田村~長浜ではないでしょうか。
    ③ D52 函館本線仁山~大沼か、室蘭本線静狩~礼文か、悩ましいですね。どちらも大カーブがあって、バックも似ています。
    ④ C58 準特急さんもお書きのように八戸線か山田線のどちらかでしょう。山科の人間国宝が、東北展に出展された山田線吉里吉里~浪板の写真と酷似しています。
    この鉄道シリーズ切手のうち、走行写真の出典は、郵政省から、ある全国的な鉄道団体に写真提供の依頼があって、それを原画にして彫られたものです。私も切手を買った際についてくる、解説書をどこかに保存しています。それを見れば、撮影者や撮影場所も分かるはずですが、記憶だけでの回答としました。

  5. 皆様、
    ご回答ありがとうございます。特派員氏と準特急氏とデータ魔・1900生氏が答えてくださるともう千人力、お答えの通りでしょう。
    切手というと誰しも写真を元に正確に掘った原画と思われますが、昔はずいぶんいい加減なモノもあったようです。私が記憶しているのは北陸トンネル開通記念切符で、白鳥が右側通行していたのを覚えています。
    今年もよろしくお願い致します。

    • と、書きましたら直ちに西村氏からクレームが入りました。
      1962年発行の北陸トンネル開通記念切手の写真を添えて「どこも間違っていない!」とのご指摘を受けました。見るとなるほどトンネル内を左側走行するキハ82が描かれていました。向日町で出庫する特急みどりのキハ82の写真と見比べても違いはありません。正確に描かれています。正確で無かったのは私の記憶でした。旧郵政省の皆さん、失礼なことを書きました。許してください。
      でも当時の鉄道雑誌でもこの切手のおかしいところを指摘する記事が出ていたように思います。(←未練がましい!)

      • 未練がましい、とお書きですが、その未練通りですよ。北陸トンネル記念切手のミスは切手史上では有名な逸話として残っています。たしかに左側通行はしていますが、架線や照明が違い、「白鳥」も乗務員扉が無いなどのミスがあります。これは、北陸トンネルの工事が遅れ、開通式が急遽決まり、発売日に合わせるため、国鉄などへのチェックを怠ったためとされています。

        • やはりそうでしたね。5番目の米手さまのコメントで「間違いがあった」と書かれていた件は、小生の朧げな記憶とも一致したのでそのままストンと腑に落ちましたが、西村さまからご指摘があったということで、ハテと考えておりました。関門トンネルとかもめだったかなと。総本家特派員さまのご指摘で、確かピク誌に顛末が載っていたはずという記憶も蘇りました。写真を裏焼きにして使ったという件も記憶にありますが、これは思い違いかもしれませんが。

        • やっぱりそうでしたか!!
          西村さんが送ってくれた切手の写真とキハ82を見比べたとき、運転台扉とラジエターの位置に違和感を覚えたのですが、斜めになっていること、小さい切手の図案と言うことで、これぐらいのデフォルメはありかなと納得していました。ありがとうございました。

  6. あけましておめでとうございます。

    ①と③の原写真は宮澤孝一氏の撮影によるものです。
    同氏の「鉄道写真・ジュラ電からSL終焉まで」という写真集(平成10年刊、めったに本を買いませんが、これは古い写真がテンコ盛りで購入してました)で、原写真と切手が並べて掲載されており、郵政省からの依頼で写真を提供されたことや電気機関車シリーズを提案されたことなどが紹介されています。

    なお、撮影地点は明示されておらず、路線名のみの記載でして、①は「会津線」、③は「函館本線」とのことです。

    • ありがとうございます。
      もしよろしければ「ジュラ電からSL終焉まで」の何ページかをお教えいただけませんか。私の持っているのは平成14年発行の交通新聞社発行のトラベルMOOK本です。

  7. 米手作市様
    宇都家さんが回答するところを私もこの本を持っておりましたので報告させていただきます。弘済出版社平成10年発行「ジュラ電からSL終焉まで」75、76頁に出ております。宇都家さんのおっしゃられる通りD52は函館本線、C11は会津線でどちらもブローニー版で撮られています。場所の特定がないのですがD52は単線に見えます。大沼-森間の渡島砂原(噴火湾沿い)まわりのどこかではないかと思います。何れにしましても私の想像した室蘭線の礼文華海岸のあたりではなかったようです。今度宮澤さんにお会いしたら確認しておきます。宮澤さんも趣味の世界での人間国宝の様な方ですが、何度かお会いして話をしたことがあります。小海線にDD16の旧客が走った時も小淵沢の大カーブでお会いしています。宮沢さんは京王線明大前にお住まいですが多分私のことはあまり知らないと思います。昭和6年のお生まれですが、今も現役で最近は講演活動でお忙しい様です。明大前と言えば昨年より始まったのですが電車がホームに進入する時に明大校歌の短いミュージックが流れます。

    • 準特急さま
      小生は懇意にさせてもらっているこの道の御大家はクローバー会のメンバー以外には居られませんが、一昨年4月の三江線潮でお目を汚したC56江の川号の撮影時に、江津の駅前でC56の大家塚本和也さんにお会いしたことがありました。社内の同行者との撮影行でしたが、そのうちの一人が塚本氏を知っていたのです。小生もC56大好き派ですが、やはり何となく強いオーラのようなものを感じてロクに話せなかったですね。我々は早目に予約したので駅前のビジネスホテル泊でしたが、塚本氏は手配が遅れて民宿に泊まると言って去っていかれました。なにか申し訳ない気持ちでした。
      0もうひとつは卒業間もなくの頃、米手さまと山陰方面へSLを撮りに行った際に投宿した長門市駅前の旅館の宿帳に「本島三郎」さんの記帳を見つけてビックリしたことがありました。当時は地方にはまだビジネスホテルはなく、同じ駅前旅館に泊まられたのが不思議な感じでした。

        • こんなしょうもない事はよく憶えていますが、肝心で大事なことはよく忘れてしまいます。
          ところで米手さまとの旅ではいろんな面白いエピソードが残りましたね。本件キハ20火災未遂、クロ151乗り損ね、御坊駅の駅弁清姫一夜寿司殺人未遂、美濃太田駅の駅弁舟弁当買いそびれ等々色々ありました。よく大事故に巻き込まれなかったものと思います。もう半世紀も前の出来事なんですね。

    • 準特急様、
      わかりました。
      私の本と宇都家さんや準特急さんの持っている本は微妙に違います。発行年度、出版社が違うので収録写真も違うのですね。手元の本の75、76ページのは飯田線の買収国電しか載っていませんでした。
      お手を煩わせました。
      ところで京王線の明大前で明治の校歌が流れるなら烏丸線の今出川駅や片町線の同志社前では”One purpose Doshisha”が流れなければならないはずです。

  8. 準特急様 

    フォローをありがとうございます。
    米手様の本は「完」編のようです。

    それにしても平成10年て20年前!なんですね。
    最近買った本、と思ってたのに・・・

  9. 手作市様様

    「ジュラ電からSL終焉まで」は紛らわしいですね。
    同一人が同一タイトルなのに、時期をズラして別々の出版社から2度美味しい出版をするなんて!

    小生も平成14年発行の交通新聞社発行分を持っており、記事のページを始め記載項目が違っており、???でした。

    今回はヤタラと混乱を招く迷惑を感じました。

    • 他大学より、初めて御邪魔致します。稲門鉄研(早大鉄研OB会)の宮崎と申します。宮澤先輩の「ジュラ電からSL終焉まで」につき、誤解があるようですので、参りました。

      この書名では下記のように、4冊が順次刊行されましたが、内容は全て異なっており、重複はありません。

      ジュラ電からSL終焉まで    弘済出版社 (1998/09)
      続ジュラ電からSL終焉まで  弘済出版社 (2000/05)
      続続ジュラ電からSL終焉まで 弘済出版社 (2001/05)
      完ジュラ電からSL終焉まで  交通新聞社 (2001/12)

      「別の出版社から」と河様が記されましたが、3巻目まで出版した弘済出版社は、2001年12月に、交通新聞社と合併し、社名が交通新聞社と変わりました。別の出版社と云えなくもないが、まぁ同じ出版社なのです。

      弘済出版社が、SLブームの頃に創刊した『SLダイヤ情報』が『鉄道ダイヤ情報』となり、今は交通新聞社から発行されていることを知れば、ご納得頂けるのではないでしょうか。

      宮澤先輩が美味しい思いをしたかは存じませんが、宇都家様がおっしゃるように、これらの本には「旧い写真がテンコ盛り」で、我々にとっても美味しい本達であることは、間違いありません。どうぞ書名のヤヤコシイのは、目をつぶって頂きますよう、お願い申し上げます。

      • 宮崎繁幹様、
        ご教示ありがとうございます。
        なるほど私の本には「完・ジュラ電から・・」とあり、「完」の文字が入っていたことが初めて分かりました。
        投稿された皆様も決して鉄界の大先輩、宮沢孝一様を揶揄されるつもりは無かったことと思いますが、失礼があれば代わりましてお詫び申し上げますのでどうかお許しください。
        これからもデジ青をご高覧いただきましてご指導いただけましたらありがたい限りであります。
        もし、宮崎様が宮沢様にお会いになる機会がありましたらこの旨をお伝えいただき、お詫びしていたとお伝えいただけましたら幸いです。

  10. 米手作市様

    直前の投稿コメントの宛名で、貴殿のお名前標記に失礼がありました事、お詫び致します。
    何しろ貧乏人の小生は、未だに10年来のVISTAを使用しており、最近頻繁に誤作動があるのに、セッカチの小生は発信前の見直しを怠る悪い癖があります事をお許し下さい。

    • 河 昭一郎様
      明けましておめでとうございます

      さて、私の近くの梅小路公園では毎月第一土曜日に「手作り市」というフリーマーケットが開かれて、年々盛況になってきております。地元に住む者にとってはまさに「手作り市様々」です。
      今年もデジ青のご愛顧とご指導をよろしくお願い致します

  11. 1900生様
    この道の御大家は当会OBにも居られますが、東西趣味の世界の先輩方もそれぞれ苦労して木賃宿を探されたことと思います。豪快な方はステホや野宿も厭わなかったようですね。これは鉄道写真の黎明期にはよくあったことと思いますが、高級ホテルにはない何かがあったのでしょう。貧乏で不便であった時代ですが思い出が詰まった撮影行であったと思います。京都まで行ってその大先輩の話を聴かせてほしいという人は沢山います。ところで昨年東京でのある写真展に参加しましたが、その中で知り合った学習院鉄研OBの方からいきなり「同志社鉄研(鉄道同好会という名称は他大学では聞いたことがないのでこのように言ったのでしょう)の方には南稚内~抜海でお世話になった」とか「いろいろ教えてもらった」とか言われました。私は同地に行ったことが無いので生半可な返事しかできませんでしたが結構当会の名も知れ渡っているものだなと思い今後はもう少し品よく立ち回ろうかと思いました。

    米手作市様
    新年早々クイズ番組で盛り上げていただき有難うございます。クイズですから私の様に間違った回答でもかまわないのでもっとお若い方ともっとお年寄りの参加を期待したいと思います。
    「ジュラ電からSL終焉まで」は最初続編を見てなかなか見つからないのでオタオタしました。それだけ宮澤さんも撮りまくっていたということです。
    音楽ですが、JR東管内では小田原駅は「おさるのかごや」、平塚駅は「七夕」、茅ヶ崎駅はサザンオールスターズの「希望の轍」、水道橋駅は「ジャイアンツの歌」、高田馬場は「鉄腕アトム」、八王子駅は「夕焼け小焼け」、仙台駅は「青葉城恋歌」、京浜急行の港町では美空ひばりの「湊町十三番地」などを確認しております。まだまだあると思います。甲子園駅は「六甲おろし」、阪急宝塚駅は「すみんれの花咲く頃」、大阪駅は「大阪しぐれ」、京都駅は「京都慕情」等々も考えられます。最近は旅行してもどこも画一化して面白味が無いように感じております。その反省としてか地方に行くとその地の名物的なものの展示や駅階段の見える所にその地の方言で「いらっしゃいませ」などと書かれていますが、列車到着時等にご当地ソングや民謡などを流すのいいでしょう。

    • 準特急様、
      貴兄の立ち居振る舞いは当会員の中で秀逸です。ご安心ください。
      さらに取材力と底知れぬ知識には空恐ろしさを感じるほどです。
      「ジュラ電・・・」には私もオタオタしましたが、恥を忍んでお尋ねしたところ、河様はじめ重鎮の方々も同じことだと安心しました。でも、こんなことってあるんですよね(稲川淳二風に)

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