“平成”の思い出 鉄道の記憶 〈6〉

阪急 前パン電車を撮る
今般の大雨被害では、とくに広島・岡山県下の鉄道は壊滅状態で、心を痛めています。私も、土日に予定していた遠隔地のイベント参加、それに続く旅行もすべて中止し、空いた時間を使って、“デジ青”投稿に勤しむことにしました。
平成の思い出シリーズを続けます。私は、昭和58年に初めて阪急沿線で生活することになり、それまでほとんど撮ったことのない阪急電車にも、自転車に乗って近くへ撮影に行くことになります。平成に入ってから、お気に入りの撮影地を見つけました。長岡天神~大山崎のほぼ中間にある「円明寺上一番踏切」です。この踏切の鉄柵のすき間のローアングルから、100ミリ程度の望遠で、大阪方面行きの電車を狙います。とくに、当時の阪急電車の特徴でもある、先頭車二丁パンタ装備車は、より凜々しく引き締まって見え、阪急電車の魅力一杯です。今回は、平成になった直後の阪急電車の“前パン”の定点記録です。
当時、特急は6300系の天下、中でも6330F編成は唯一の前パン。昭和59年の建造で、7300系の界磁チョッパなどの編成は新技術が投入され、電動車ユニットを両端に置いたため、大阪方先頭6330が前パンとなった。


この時期に新造されたのが8300系で、阪急創立80周年を記念した京都線VVVF車の第一陣。平成元年5月に第一編成の8300F編成が登場した。いわゆる額縁スタイルで、ヒントになったのはソウル地下鉄4号線の車両と言う。反射板を兼ねたステンレスの飾り帯が新鮮だったが、トップから撤去の指示が出て、まもなく無くなった。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                            

昭和から平成に掛けて、阪急京都線の運転状況を概観してみよう。この時期、JRの積極攻勢により、京阪神の速達輸送は、徐々にJRがシェアを高めていた。阪急京都線でも、大阪・京都の直通輸送から、沿線の中間主要駅への速達輸送へとシフトして行く時代で、ダイヤ改正が頻繁に行われていた。
平成直後の状況は、昭和63年12月のダイヤ改正によるもので、特急は平日・土日データイムとも15分ヘッド、停車駅は、大宮・十三のみ、平日ラッシュ時に高槻市停車の通勤特急も設定されていた。急行・普通も15分ヘッドで、旧来のダイヤを維持していた。この改正で、朝ラッシュ時の急行の10連が、従来の3列車から5列車に増強されたことが目新しい。また、新形式の8300系が、輸送力増強のため新造されている。
そして平成元年12月にも、再びダイヤ改正が行われる。8300系の増備により、急行・普通が大幅に増発され、平日データイムは、急行・普通とも、15分ヘッドから、10分ヘッドになった。いっぽう特急は、20分ヘッドとなった。特急のない時間帯は、急行が肩代わりするダイヤとなった。
その後の増備車の2+6蓮の8330F編成、6連で嵐山線入線も可能になった。この額縁スタイルは、ほかの形式に比べて風圧が大きく、とくに大山崎でのJR東海道線のアンダークロスで問題化した。同じ額縁スタイルの大阪市交60系も借りて比較したそうだ。結局、途中から“く”の字の傾斜スタイルに変更され、8300系にはさまざまな顔が存在することになる。おもに急行として活躍中の7300系、昭和57年に新造が始まり、この平成元年に最終が出て、以降は8300系に代わる。またこの年に、大阪市交の66系がデビユーした際に、7300・8300系の堺筋線運用の協議がまとまり、天下茶屋まで足を伸ばすことになる。京都線の最大両数を占めていたのが5300系で、初の量産冷房車で105両あり、普通から時には特急まで幅広い活躍をしていた。運行標識板とヘッドマークの二枚看板、下枠交差式二丁パンタは魅力満点だった。この時期、手巻きの運行表示幕は、京都線内では白で、堺筋線乗入れ車のみ行先、種別を表示した。表示幕を両側に付けたリニューアル5300系も平成2年から登場した。

昭和35年に登場、現在の阪急電車の基礎を築いた2300系は、全車78両が健在だった。冷房改造のあと、表示幕の拡大、標識灯の移設などの改造が施された。いっぽう、かつての特急専用車2800系、昭和50年の6300系のデビューで特急の座を降りて、3扉ロングシート化され、7連に短縮されて、普通や千里線運用に就いていた。昭和63年から一部の廃車も始まり、まもなく本線から撤退し、嵐山線で最期の活路を見い出すことになる。

 

 

 “平成”の思い出 鉄道の記憶 〈6〉」への5件のフィードバック

  1. 総本家青信号特派員様
    今回は総本家さんの地元阪急京都線の前パンということですが、以前ブルブルさんからメリット、デメリットはそれぞれあってどちらがいいとは一概に言えないが関西私鉄は電動車が先頭に配置されることが多く、関東私鉄やJRは制御車が先頭のことが多いと言われた。そういえば阪急や京阪を撮る時は前パンが来ることが多くいつもの撮影感が狂って画面から先頭車のパンタが切れてしまう失敗作が多い。両電鉄共に都市化された地域を走るので踏切で望遠を使うことが多いがわかっていても必ず失敗する。私は2000、2100、2300系の後に出た京都線の2800系の先頭の2丁パンタを真横から撮ることが好きでした。電気機関車のような2丁パンタと綺麗な窓枠が魅力的でした。特に4番の編成がよかったですね。

    • 4番の編成は京阪1900ですね。台車が汽車会社のKS台車で他はFS台車。KS台車は当然空気バネで、しかも軸バネの部分がシンドラでしたので乗り心地は抜群でした。淡路の平面クロスはお楽しみの通過でした。たぶん、4番の編成を選んでいたと思います。烏丸や十三で待っていると反対側の特急が4の編成でしたらもう1本待って乗っていました。そうそう、京阪の1951のある編成も同じように待っていました。今は一本待って乗ろかと思うような事はなくなったのは寂しい限りです。よく乗る機会がなくなったのでしかたないですが。

      • どですかでんさんおしゃられる通りです。他はミンデンドイツで同じ時期東武の8000系は電制もない車両ですが、台車だけは阪急FS345と同じタイプですが空気バネで不思議に思って見ていました。

  2. 準特急さま
    この踏切は、以前、準特急さんがご来京された際に、ぶんしゅうさんとともに、ご案内したことを思い出しました。いまは周囲に家が増えましたが、まだまだ写真が撮れる数少ない場所です。前パンのことは、以前にも、地域差を聞かせてもらったことがありました。たしかに、カメラを構える時も、前パンの分も見ておかないと、慌てることになりますね。メリット、デメリットはともかく、電車は格好から入る私は、大好きなアイテムです。

  3. 総本家青信号特派員様
    この踏切は以前神足に下宿している頃に自転車ではなく徒歩でよく撮りに行きました。まだ、長岡天神~大山崎間はどこでも撮影できる時代で、2800、P-6、710等役者揃いでした。「平成の思い出」なのに「昭和の思い出」にスライスして申し訳ありません。

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