客車のある風景 ~フィルムの片隅から~ 〈7〉

西鹿児島の団体列車

前項で、客車にまつわる話題として、デカンショさん、1900生さんから、「エキスポこだま」が採り上げられました。この列車、昭和45年、夏休みに万博に押し寄せた入場者の輸送手段として生まれたものでした。夏休みになって、万博の終了も22時30分まで延長されますが、輸送の大動脈を担っていた新幹線は最終が出たあと。そこで、苦肉の策として生まれたのが「エキスポこだま」でした。全国から一般客車をカキ集め、7月3日から最終日の9月13日まで、上りのみ、全車指定での運転でした。時刻は、大阪22:58発、新大阪、京都に停車して、三島には6:53着、始発の新幹線「こだま」(全車自由席)に乗り換えて三島7:05発、東京8:10着でした。「エキスポこだま」自体は臨時急行ですので、途中の駅までの利用も可能でしたが、割引もあって、一部区間とは言え冷房の入った新幹線に乗って東京へ戻れるのは魅力でした。列車は三島に着くと、すぐ回送でトンボ帰りして、その日の晩の運転に備えていました。
日本が高度成長の頂点に達した昭和45年に開催された、国家的一大イベントの日本万国博覧会、総入場者は6400万人で、その大移動を担ったのが鉄道で、日本全国から、万博会場を目指す、列車が数多く運転されました。たまたま訪れていた九州でも、その大輸送の一部を垣間見ました。
昭和45年8月の終わり、西鹿児島駅のホームの時計は16時55分を指している。なにやら5番ホームから楽団の演奏も聞こえてきて賑やかだ。大勢の見送りを受けて、雑型客車ばかりの列車が出発して行く。時刻表を見ても該当する列車はなく、どうやら団体列車のようだ。


満員の車内は、上段一杯まで窓が開けられて、それだけで暑さが伝わってくるようだ。サボを見て事情がつかめた。「さようなら万博号」と書かれている。どうやら、当時、地方でよく見られた、駅ごとに団体旅行を募集した列車のようだ。見送るのは、国鉄の関係者のようである。
列車は妻面を見せて、ホームを離れた。妻面には大きなヘッドマークがあり、“茶芽会”と書かれている。まだ陽は高くて暑い。これからひと晩、冷房も無い、定員いっぱいの列車に揺られて、最後の万博に向かうのだろう。今なら、カネをやるから乗れと言われても、御免被りたいが、当時はこれがスタンダードな列車だった。
そのシーンから5時間ほど経った西鹿児島駅のコンコース、23:00発の門司港行き「かいもん」を待つ列ができて、私もその列に並んだ。それこそ、フィルムの36枚目で、フィルム交換のために何気に写したものだが、よく見ると万博一色の広告があふれている。「万博はあと12日です」の文字も見える。これほど左様に、客車も、万博、万博で、需要があふれていた時代だった。

 客車のある風景 ~フィルムの片隅から~ 〈7〉」への3件のフィードバック

  1. 総本家青信号特派員様
    西鹿児島駅コンコースの写真、大変貴重な記録ですね。万博一色の広告は昭和45年という時代が感じられ、懐かしさで胸がいっぱいになります。
    「かいもん」の乗客が列に並ぶ様子も懐かしく、夜行列車の始発駅ではよく見かけたように思います。浅はかな小生は蒸気機関車以外には目もくれず、駅舎やホームの様子などは被写体と考えていませんでした。あの頃当たり前に見られた風景が今となっては懐かしく、何で撮らへんかったんや!と後悔しています。
    昭和48年の夏休み、日豊本線のC57・C61を撮影後、西鹿児島から「かいもん3号」に乗ったのですが、サッパリ記憶がありません。DJスタンプが手許にあるので、多分改札は出たと思うのですが、列に並んだ覚えはありません。忘れてしまったのでしょうか。それよりも、時間が遅かったのか駅弁が買えず、何も口にできないまま、ひたすら空腹に耐えたことを思い出しました。食べ物の恨みは恐ろしいです。

    • 紫の1863さま
      昭和48年の夏にはまだC61が走っておりましたか。そんな情報をもとに小生もその年の暮れから年末・年始休暇(この年は曜日配列が良かった)を利用して最後の九州SLを撮りに出かけました。目的の一つであった急行日南3号のC57牽引復活は撮れたものの、既に日豊C61はD51に山野線C56もC12に置き換えられていて臍を噛みました。またこの旅行の帰路に夜行かいもんのから小倉で485系岡山行特急「はと」に乗り継いで帰京しました。旅行中何度も窓口でキャンセルを尋ねましたがもとより一向に出ませんでした。しかし前日の西鹿児島駅窓口で、小生の前の客に対して1席空が出たとの返事がありましたが、その客は二人連れでどうしようかと迷っていたので、その隙に割って入って窓口係員にお金を渡して「その指定券貰った」と思わず叫びました。何かと鈍くさい小生ですが、この時の素早い行動は我ながら今でも感心しています。その後九州内急行のかいもんのBネには空きがあることがわかり、ゆっくり寝て小倉で優雅にモーニングを済ませ「はと」の客になりました。因みにこの「はと」の混みようは凄かったですね。朝博多を出て15時頃に岡山に着くゴールデンタイムの特急でしたから、指定席の通路も満杯でWCに行くのも一苦労でした。

    • 紫の1863さま
      いつも詳細にご覧いただき、ありがとうございます。
      私も、鉄道(車両)好きですから、撮影に行くと、車両中心の写真(止まり、走りとも)が約8割、あと2割が、今回のようなスナップ的な写真です。ところが、40年、50年経過して役に立つのは、車両にしろ、スナップにしろ、時代背景が分かる写真なんですね。時代が読めない、車両中心の写真は、あまり役立ちません。私も、なんで駅やホームでもっと撮らなかったのか、悔やむことしきりです。
      食事のことにも触れられていますが、私も同感です。コンビニが無かった時代、駅弁にありつけなかったことも再三でした。かと言って、赤提灯に一人で入るような勇気もなく、泣く泣く空腹を抱えて、列車に乗り込んだことがありました。

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