北のC62 全記録 〈2〉

◆ “北のC62”に初対面&「ていね」乗車 昭和43(1968)年8月30日
この旅行は、同年8月23日から9月16日まで、北海道均一周遊券をフルに使った25日間の旅行でした。東北・北海道は全く初めての地で、さまざまなところへ行ったものです。当時の感覚では、C62以上に魅力的な対象がいくらでもありました。C62に費やしたのは、数日間にしか過ぎません。花輪線龍ケ森での2泊の狂化合宿を終えて、東北本線奥中山で最後のD51三重連をDRFCメンバーとともに撮ったあと、いったん解散し、一人で青函連絡船「羊蹄丸」で津軽海峡を渡り、函館に0時45分に着いた。待合室でひと寝入りを目論むが、椅子はすでに占領されていて、床に寝るが、さすがに寒さを感じて北海道へ来たことを肌で感じた。5時48分、始発の松前行きに乗り、つぎの五稜郭で下車する。まもなく、通過するのが上り急行「たるまえ」、C62 32の牽引だった。「たるまえ」は、その一ヵ月後のヨンサントオ改正で「すずらん」に改称される、札幌発室蘭本線経由の函館行き夜行急行で、長万部~函館がC62の牽引だった。

駅で知り合った、もう一人のファンと連れ立って、駅の西側にある五稜郭機関区へ行った。初めて見るD52などを写していると、まもなく、「たるまえ」を牽いたC62 32が戻ってきた。転車台に乗ると、朝陽が当たって汚れたボイラーにも輝きが増してきた。

太いボイラーはさすがC62と感じる。 当時の北海道のカマは、C62に限らず、ほとんど“三ツ目玉”だった。

函館に戻って、11時25分発の稚内行き「宗谷」に乗る。DC10連で、後3両は旭川止まりだが、7両は稚内まで通し運転で、今から考えると実に旺盛な需要があったのだ。車窓につぎつぎ流れる、大沼、小沼、駒ケ岳、噴火湾の景色と眺めると、北海道へ来たことを改めて実感する。
13時16分、「宗谷」は長万部に到着、下車する。13時52分には、上り「ていね」が到着する。初めて見るC62重連だった。

前補機のC62 3が切り離されて、本務機が現われると、そこには憧れのC62 2がいた。デフのツバメマークもこの眼ではっきり確認できた。ほかにも、室蘭線の列車を牽くC55 1にも出会い、北海道初日から調子がいい。

続いて16時15分、下り「ていね」が到着した。C62 32の牽引で、長万部でしばし休憩中のC62 3が前部に付き、重連になる。ホームで偶然一年先輩のKさんと会い、一緒に「ていね」に乗り込んだ。Kさんは山口県の湯田温泉の出身で、D52が大好きな人だったが、その数年後に早逝されたと聞いた。▲▲熱郛付近の勾配を上って行く「ていね」。

シンダがハンパ無いことは前述したが、それを実感することが乗車中に実感することがあった。「ていね」には、二人とも窓際に座ることができ、Kさんが進行向きに座った。窓はもちろん開けっぱなし、トンネルに入ると、煤煙だけでなく、“パラパラ”と音を立てて粒状のシンダが身体に降り掛かる。そのうち、Kさんは、口を開けて寝始めた。倶知安に到着の前、私は見た! 赤いはずのKさんの舌が、真っ黒になっているではないか。
18時05分、暮れなずむ倶知安に「ていね」は到着した。4分の停車時間を使ってC62は火床の整理に忙しい。駅名標の右には“羊蹄山の名水”飲み場がある。そのまま乗り続けるKさんと分かれて、一人で倶知安YHへの道を急いだ。

昭和42年10月1日改正、函館~小樽の時刻表、右端に下り「ていね」が見える。

 北のC62 全記録 〈2〉」への5件のフィードバック

  1. 三つ目のC62は初めて見ました。
    見たことがないのですが、いつからでしょうか?
    見たところ、下のは小さいようですが、何に使うのでしょうか?
    教えてください。
    昭和40年前後に行ったときは小さいのは付いていませんでした。49年に新婚旅行で行ったときにも付いていませんでした。初めて見ました。

  2. この昭和43年の訪問時は、C62全機が三ツ目でした。ほかにも、旅客のC55、C57も同様でした。ところが翌年に訪れると、普通の二つ目玉になっていました。昭和43年以前は、訪れたことがありませんので、これから雑誌なと調べて見ますが、いずれにしろ、ごく短い時期のようです。用途も不明です。

  3. 総本家青信号特派員さま 米手作市さま
    あの三つ目は対向列車とスレ違う際にウインクするためのもので、他にも夜間の駅通過時に車掌と駅員がお互い振り回して、どちらが勝つか勝負するためのカンテラもありましたよ。とまあこれは全くの冗談ですが、62の重連にはワクワクしましたね。特に2・3は「ゴールデンコンビ」や「C62兄さん」とか呼ばれていたとか。たまに前補機にD51が入るとガッカリしたものでした。62重連の乗車は半年前の冬季でしたからシンダの記憶はありませんが、持病用に持参していたカイロを二重窓の間に置いたところ、僅か数分で冷たくなったという記憶があります。初めての重連乗車だったので、惰行・力行時の汽笛合図とガクンとくる軽いショックが今も印象に残っています。
    ところで小生も前信の昭和44年8月の帰りは特急北海から連絡船に乗り換えた函館で有効期限が切れ、後期講義の始まる前日に帰京しています。余談ですが1日千円の予算を立て、ユースと夜行を隔日に利用して在道日数を計算しながらでした。
    また当時は仰るように北海道の鉄道が全盛期に向かっていた頃で、「宗谷」に限らずローカル急行以外の優等列車はよく混んでいましたね。因みに宗谷の前身は36.10改正時に「オホーツク」・「摩周」・「宗谷」併結の3階建急行として誕生しましたが、直後から増結につぐ増結で、混雑期には札幌以東でオホーツクが単独運転したり、その後「オホーツク」・「摩周」が特急「おおとり」となって昇格分離、新たに急行オホーツクが札幌以東に新設されています。そして当初キロ無しのたった3両だった宗谷が単独急行になり、キロを含む9両編成にまで成長したことなどからも、旺盛な需要の一端がわかると思います。翻って現在をみると、もう言葉にならないほどの寂れようで心が痛みます。

  4. いつもながら貴重な写真のご披露、ありがとうございます。

    人様のHPの受け売りですが、↓の記述を見つけました。
    http://railsphpto.travel.coocan.jp/hakodatehonsen1/hakodatehonnsen2.html
    の20枚目のところです。
    ということは、3灯は予備灯の位置変更時の一時的なものということでしょうか??また、ナンバープレートの上部設置時代以前には前照灯の右側との2灯時代もあったんですね?
    またこの運転取扱基準は局ローカルのものなのでしょうか?
    ?ばかりで申し訳ございませんが、ご存じの方、ご教示の程、よろしくお願いいたします。

  5. 宇都家さま
    貴重な情報、ありがどうございました。たしかにサイトを見ますと、昭和42年は上下の2灯、昭和43年は3灯、昭和44年以降は左右の2灯になっていますね。3灯は、この年だけ見られた、過渡期の状態だったことが分かりました。ほかの雑誌も確認しましたが、同様でした。
    改めて雑誌の写真を見返しますと、左右2灯時代が圧倒的に多く、上下2灯、3灯のものは極めて少数でした。また原型の1灯時代もベテランが撮られていました。これを見ても、C62重連は、昭和44年以降に急激なブームとなったようです。

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