カラフルDC-半世紀前、盛夏編

残暑お見舞い申し上げます。
昨年に続き『真夏の蒸機』を考え、記事も途中まで書いたのですが、もうひとつパッとせず、諦めて、DCにしました。以前加太のDCを投稿したのですが今回はそれ例外の場所です。炎天下になかなか来ない蒸機を待つ間、さっと通り過ぎたDC。高価なフィルムが勿体無くてあまり気乗りせずに撮ったDCですが、今はやはり貴重に感じるものです。DCの形式を私はよく間違えます。気を付けますが、間違いあればご指摘下さい。

先ずは米坂線。先だってより、蒸機39685の写真をさいたま市役所に飾って頂いていますが、それはこれと同じ場所の地上から撮ったもの。下の画像は山から俯瞰した準急『あさひ』です。仙台発仙山線、奥羽線、米坂線、白新線経由新潟行き。上下各2本あり、鉄橋とトンネルが続く深山幽谷地帯を行くキハ58系が画面左に進行します。一面緑でDCの色がよく映えます。同じ位置から撮った貨物列車の画像は蒸気も見えず、緑と黒だけ。見栄えがしませんでした。
▼米坂線 玉川口-小国間 607D 『あさひ1号』 1965.8.17      C1521 続きを読む

カラフルDC-加太編(3)

l       鉄道車両の塗装  
 明治4年の鉄道開通時から、鉄道車両の塗装は施されていたようです。よく目にするのが、黒の蒸気機関車に赤のラインなど、焦げ茶か黒の木製客車に赤い帯や模様塗りなどです。カラー写真を目にしたことが少ないのですが、その後も鉄道車両、殊に官設鉄道車両の塗装は、黒系が多く、機関車や貨車は黒に限られ、客車はぶどう色塗装で赤・青・白帯が目立ちました。黒以外なら、戦前では特急つばめの客車に淡緑色塗装、阪神間のモハ52系に茶とクリームのツートンカラー塗装があったくらいでしょうか。(官設以外なら、明治時代から鮮やかな塗装の東京馬車鉄道などはありましたが)本格的な車両のカラー化は、戦後しばらく経った頃、湘南電車、気動車で始まったようです。
 

 車体の塗装目的は、当然のことながら、防錆、耐水、耐油性等の耐性付与です。乗客の便宜上や、美観目的などは、殊に戦前ではほとんど考えられていなかったようです。また、非「車社会」ですから、接近する列車を時間的に早い段階から認識する必要性も少なく、目立ちやすい色を車体に塗装するいわゆる安全性に配慮の必要性もなかったようです。
 
 それが、戦災日本の復興と共に、カラー塗装化が一気に始まりました。物の本(『国鉄電車のあゆみ』、『電車のアルバム』など)では、1949(昭和24)年に復活した京阪神間の流電が最初とか。ブルーの濃淡塗り分けだそうですが、カラー写真を見たことはありません(その前年、モハ52系が高速試運転の時、グリーンに塗られた車両をどこかで見た記憶がありますが)。関東地区では同年、モハ32系の塗り見本電車が現れたようです。先頭車両が二系統色に塗り分けられました。前面と側面が一対で片方に湘南色、片方がスカ線色でした。塗り分けの塗り分けですから、一車両に合計4色が塗られていたことになります。暗い戦後の払拭を望む人々に通じたのだろう、これが本格的な車両カラー化の先駆となり、翌1950(昭和25)年1月横須賀線にスカ線色、3月東海道線に湘南色電車が走り始めました。

 
 一方、気動車(ガソリンカー、ディーゼルカー)はどのようだったでしょうか。川上幸義著『新日本鉄道史』によると、1935(昭和10)年、キハ42000の鮮紅色、のちの青色と灰青色の塗り分けが最初だそうです。戦後1950DCの運用が再開され、1952年湘南型の正面を持つキハ44000系が誕生し、DC化時代の幕開けとなりました。この時の塗装は上記青色と灰青色の塗り分けだったようです。DCはその後も『旧一般色』と呼ばれた青色と黄褐色の塗り分けに、屋根は青灰色でした。そして1959年、我々に馴染みの『新一般色』が誕生。クリーム色4号と朱色4号のキハ11系。クリーム色2号の地に赤2号の準急用キハ55系や51系などです。(この項、星 晃「国鉄車両の色」、鉄道ジャーナル461号、 20053月 を参照)

 
 このあたりからは説明不要でしょう。その後のカラフル時代は電車、客車、機関車、DCを問わずすさまじいばかりです。車体塗装の色分けには、ご存知もう一つの目的、乗客向け用の利用路線の見分けがありました。最初の頃はその目的も達成されたでしょうが、最近は複雑で戸惑うばかりです。

 
 近年、不景気も手伝い、さすがにある程度統一をとか、JR別に色分けしようとかの動きが新聞発表や当デジタル青信号にも掲載されていました。それも結構ですが、ある程度は適度な色彩感覚も持っていただきたいですね。レンガ色の一色塗装など、けばけばしい色使いで周囲の風景とマッチもせず、飛びぬけたような色使いはあまり感心しません。
 
  

 加太を通過したDC群は、カラー化時代の初期の頃でした。そして穏やかでのんびりとした周囲の山々や、人々の大切な田圃や畑ともよくマッチしていました。蒸気機関車の牽く列車と共に、DC列車の通過を見ているだけで我々には生命の洗濯となったものでした。

16.714D急行『平安1、志摩2、くまの』、なんと11連。空も山々も初夏の様子です。

17.338D、初夏の田畑はまもなく夕方です。

 
18.712D、田んぼに水が引かれ、幼苗も育っていて田植えが近いようです。


19.
加太トンネルの上から、眺めた中在家信号所。左が332D、信号所をノンストップで下ります。右は333Dで待避中、この後一旦、山すその引込み線に後進、再び前進して本線に戻り加太トンネルに向け坂を上ります。柘植では草津行きと湊町行きに分かれます。


20.213D急行「かすが2号」キハ55、キロハ25、キハ58など。山々はすっかり緑です。

カラフルDC-加太編(2)

l       加太会
 昭和3912月6日(日) 30年台も残すところあと25日の日に生まれました。メンバーは、N氏(経営者、現・デジタル青信号大阪特派員)、U氏(住職兼某女子大学理事)、I氏(元・某銀行員)、T氏(筆者)でした。『小海線を愛する会』に続く、DRFC公認部会の一つです。『小海線を愛する会』は高原列車の撮影合間に軍事教練が課題であると聞いたことがありますが、当会は純心な関西本線の列車撮影会でした。時には、呼びもしないのに勝手に来て大きな顔をしていたゲスト陣の参加もありました。ある時など、会員の数以上で、近くの小学校の校庭で朝礼台の前で整列し遊んでいました。
 活動は、2,3ケ月に1回程度、土曜日の夜、三重県鈴鹿郡(現・亀山市)加太板屋の、旅館村田屋に一泊し、翌日曜日に加太-柘植間で撮影です。旅館には、当時建設中の東名阪国道の関係者も宿泊していて賑やかでした。手でハンドルを廻し交換を呼び出す自動(・・・)電話(・・・)は『加太の1番』でした。
蒸機の煙と山間の新鮮な空気を吸った後、夕刻に列車で帰途に付く、そんな具合で、およそ45年は続いたでしょうか。いつしか自然消滅でした。
 加太の作品については、散発的な写真発表や、活動報告はあるものの、これまでに主だった報告はあまりなし得ていないようです。また、何十年ぶりかの撮影会なども行っていません。
 ところが最近、鉄道ファンでJTSのメンバーの村田屋の親戚の方が、乙訓の老人と話され、元村田屋のご主人をも呼んでスライド映写会等どうかとの話が持ち上がって来ました。本年中にも開催したくメンバーに連絡を取ろうと考えています。

8. 4D特急「あすか」です。当掲示板にも藤本さんが詳しく説明されていたし、いまさら説明の必要もないと思います。伊賀上野から亀山まで柘植にも止まらず、山を下ります。

  
9.この撮影の前日(1966.3.5)に他の全ての準急と共に格上げされたばかりの212D急行「かすが1号」。いつもの編成に後部2両はキハ35併結です。これも客扱いはしていないのでしょうか。時刻改正時期の回送でしょうか。  
10.328D、梅雨も近い522日、この日は朝から雨でした。横着にも外へ出ずに村田屋の2階から撮影です。手前に電線が沢山ありますが、雨天で目立ちません。過去に同じ場所から、C57補機の貨物を撮ったことがあります。その時には電線がはっきりとしており、消去したことがあります。先頭車は、キハユニ15ですか? どなたか形式を教えてください。

 

11.加太駅に到着の2216D急行「はやたま」。駅員は雨具着用です。先頭からキハ55、キハ58、キロ28、後部は58系で交換の為停車します。

 12.左はキハ55213D急行「かすが2号」、加太には停車しません。右が先の「はやたま」キハ58 

 13.時は秋、稲穂は黄金色、ところどころに彼岸花が残っていました。335Dキハ354連です。この日は雨雲が低く垂れ込めていました。 

 14.ようやく雨があがり始めた頃、墨絵のような山をバックに「あすか」が下って行きます。天気の悪い日でもDCは見栄えがします。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

15.村田屋付近を通過する2216D急行「はやたま」。右に加太の木造小学校が写っています。村田屋に続く民家の屋根も見えます。

次回は、加太トンネルの山上から見た、中在家信号所のDC同士の交換風景などです。

カラフルDC-加太編(1)

  • カラフルなディーゼルカー(気動車、以下DCと表記)のこと

 蒸気機関車牽引の旅客や貨物列車の撮影によく出掛けました。それらの合間には、どの線区でも必ずカラフルなディーゼルカーが通過しました。蒸機列車と違い、バックを気にしなくてもよいし、なによりも周囲の風景によく溶け込んで見えました。それは当時の日本の風景の一つでした。でも我々は当時、貧乏学生か薄給な勤務初年兵であり、高価なカラーフィルムをふんだんに使えません。蒸機以外は撮影しないことにしていました。それでも時々気が向けば、通過する通勤通学や優等列車のDCにカラーフィルムを消費していました。
 そんなポジフィルムが、およそ300コマほど残っています。拙著HP『蒸気機関車山路を行く』のテーマから外れているので、アップもしていませんでしたが最近、ページ稼ぎに『カラフルDC』としてアップしました。幸いカラーの損傷が少ないので見ることはできますが、如何せんバカちょんカメラに中程度の撮影技術。お目にかける代物ではない物も多いのですが、ご辛抱ください。また、DCの形式説明などに誤りなどがあるかと思います。ご遠慮なくコメント欄等でご指摘ください。お願いします。

 まずは、加太会で撮影した関西線加太付近のDCからです。

1.加太会発足の日、320D湊町発亀山行き、キハ35が画面左へ25‰の坂を下ります 

 2.同日323D、昼前の亀山発湊町行き。キハ35とキハ20の混編成です。

3.明けて1965228日。206D準急「かすが1号」です。キハ55、キロハ25など。後部には、2両のキハ17が併結されています。まさか客扱いはしていないように思われます。翌日からのダイア改正に備え回送かもしれません。この日は、例の2442レ「鳥羽快速」の運転最終日でした。「かすが1号」の8分後に撮影地を通過しました。最終日の蒸機はC57148で、現在大阪の共永興業株式会社の本社ビル内に陳列されています。同社の本社ビル完成記念に整備陳列したものです。同時発行の「永遠に走れ!われらの蒸気機関車」と題した箱入りSPレコード付記念誌が手元にあります。
 一日の撮影終了後、関駅まで出て、文字通り最終の2441レで山陽本線兵庫まで乗車帰宅しました。19644月入社の初年兵は、毎朝兵庫から大阪まで、「鳥羽快速」で通勤し、時に帰りも同列車でした。11ヶ月間の客車通勤もこの日でおしまいでした。 

 4.中在家信号所の334D湊町発名古屋行き、5時間近くの運転です。画面奥の待避線で335Dと交換し、手前の待避線にバックで進入、再び方向転換して坂を下って行きました。

 5.DC列車は併結・分離が得意で、分岐駅の多い関西線にはそんな列車が沢山通過しました。 これもその一つ、準急「平安1、かすが1号、はまゆう」の奈良、白浜、京都行きです。キハ55、キロハ25などが見える10両編成です。

 6.同日332D、キハ35の4連です。農家は稲刈りです。刈取り機から粉塵が上っています。懐かしい日本の風景の一つです。

7.同様の334D、今度はキハ20との混成5連です。

 次回は、特急「あすか」や急行に格上げされた「かすが」、「はやたま」などをお目にかけます。