カラフルDC-加太編(2)

l       加太会
 昭和3912月6日(日) 30年台も残すところあと25日の日に生まれました。メンバーは、N氏(経営者、現・デジタル青信号大阪特派員)、U氏(住職兼某女子大学理事)、I氏(元・某銀行員)、T氏(筆者)でした。『小海線を愛する会』に続く、DRFC公認部会の一つです。『小海線を愛する会』は高原列車の撮影合間に軍事教練が課題であると聞いたことがありますが、当会は純心な関西本線の列車撮影会でした。時には、呼びもしないのに勝手に来て大きな顔をしていたゲスト陣の参加もありました。ある時など、会員の数以上で、近くの小学校の校庭で朝礼台の前で整列し遊んでいました。
 活動は、2,3ケ月に1回程度、土曜日の夜、三重県鈴鹿郡(現・亀山市)加太板屋の、旅館村田屋に一泊し、翌日曜日に加太-柘植間で撮影です。旅館には、当時建設中の東名阪国道の関係者も宿泊していて賑やかでした。手でハンドルを廻し交換を呼び出す自動(・・・)電話(・・・)は『加太の1番』でした。
蒸機の煙と山間の新鮮な空気を吸った後、夕刻に列車で帰途に付く、そんな具合で、およそ45年は続いたでしょうか。いつしか自然消滅でした。
 加太の作品については、散発的な写真発表や、活動報告はあるものの、これまでに主だった報告はあまりなし得ていないようです。また、何十年ぶりかの撮影会なども行っていません。
 ところが最近、鉄道ファンでJTSのメンバーの村田屋の親戚の方が、乙訓の老人と話され、元村田屋のご主人をも呼んでスライド映写会等どうかとの話が持ち上がって来ました。本年中にも開催したくメンバーに連絡を取ろうと考えています。

8. 4D特急「あすか」です。当掲示板にも藤本さんが詳しく説明されていたし、いまさら説明の必要もないと思います。伊賀上野から亀山まで柘植にも止まらず、山を下ります。

  
9.この撮影の前日(1966.3.5)に他の全ての準急と共に格上げされたばかりの212D急行「かすが1号」。いつもの編成に後部2両はキハ35併結です。これも客扱いはしていないのでしょうか。時刻改正時期の回送でしょうか。  
10.328D、梅雨も近い522日、この日は朝から雨でした。横着にも外へ出ずに村田屋の2階から撮影です。手前に電線が沢山ありますが、雨天で目立ちません。過去に同じ場所から、C57補機の貨物を撮ったことがあります。その時には電線がはっきりとしており、消去したことがあります。先頭車は、キハユニ15ですか? どなたか形式を教えてください。

 

11.加太駅に到着の2216D急行「はやたま」。駅員は雨具着用です。先頭からキハ55、キハ58、キロ28、後部は58系で交換の為停車します。

 12.左はキハ55213D急行「かすが2号」、加太には停車しません。右が先の「はやたま」キハ58 

 13.時は秋、稲穂は黄金色、ところどころに彼岸花が残っていました。335Dキハ354連です。この日は雨雲が低く垂れ込めていました。 

 14.ようやく雨があがり始めた頃、墨絵のような山をバックに「あすか」が下って行きます。天気の悪い日でもDCは見栄えがします。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

15.村田屋付近を通過する2216D急行「はやたま」。右に加太の木造小学校が写っています。村田屋に続く民家の屋根も見えます。

次回は、加太トンネルの山上から見た、中在家信号所のDC同士の交換風景などです。

カラフルDC-加太編(2)」への6件のフィードバック

  1. 328Dの先頭車はキハユ154です。もともとキロハ18で 6両がキハユに改造されています。2等車の天井には扇風機があり その分 屋根が飛び出しています。その2等室側が郵便室に改造されたのですが、キハユ15はその後5両がキユニ15に再改造され、このキハユ154だけが改造をまぬがれ、亀山区に1両残っていました。関西線の名物でした。
    天王寺で急行紀州の先頭に立つキハユを写したこともあります。なつかしいですネ。

  2. 懐かしいお話をありがとうございます。
    62~64年ごろ、小生は「小海線」に属しており、現地では須磨の大人(タイジン)あたりから厳しい軍事教練を受けておりましたが、その教練をサボって結構何度も「加太会」に闖入し「村田屋」にはお世話になりました。
    あのチンキな宿屋は誰が見つけたんでしょうねぇ~?確かまだ五右衛門風呂でしたよね?最初のころはまだ名阪国道の工事も始まっていなくて、我々一行以外の宿泊者に会ったことはほとんどなく、この宿屋はどないしてメシを食ってるんかなぁ~?と不思議に思っていたことがありました。
    ある初夏の夜、何かの都合で行くのがちょっと遅くなり一人で真っ暗な道を加太の駅から村田屋へ歩いていた途中、川沿いに曲がった途端にものすごい蛍の群れに出会い、しばし陶然と眺めていたことがあります。我が生涯で見た最高の蛍の光景でした。
    ふと、そんなことを思い出しました。

  3.  西村さんお久しぶりです。交通科学博物館の写真展以来ですね。ご教示をありがとうございます。キハユ154ですか。荷物の「ニ」は付いていないのですね。天ワカにもこんな顔のキハユかキハユニがいましたね。

     吉田さん、いや湖畔のヒマ人さん、久しぶりのデジタル青信号ではないですか?。再会できうれしい事です。昔の共通話題も時に必要ですね。蛍の話を思い出しました。
     それから写真に見える小学校で「前へ倣え」や、村田屋の二階で乾杯、表での記念写真なども残っています。いつかの機会に見てください。記事にも書きましたが、村田屋の関係者ともども再会の催しを計画しようと思います。ヒマ人さんも参加してください。立派な参加有資格者です。加太のDCはあと1回分予定があります。

  4. 皆様の楽しい会話を途切れさせないように、そっと失礼いたします。
    この時代の加太はSL以外でもとても絵になります。
    ディーゼルカーの朱色とクリームの組み合わせ、当時の広告看板の少ない日本の風景にはとても映えますね。ヨーロッパの写真を見ているようです。
    私は子供の頃、今はなき保育社のカラーブックスの「日本の鉄道」の写真に、強い憧れを抱きました。
    なかでも津々浦々の日本の風景の中行く、気動車の写真に吸い込まれるように見入っていました。
    その後自分でもローカル線の写真はよく撮ったのですが、次第に感動が薄い物になりいつの間にか、退屈な作業になっていました。
    この一連の写真を見て、あの時に何に感動したのか、少しずつ蘇ってきました。

    あと、村田屋の2階の窓から写した雨の中を駆け下りてくるキハユニ15他の3連。
    そのシチュエーションを読ませていただき、青春時代の当ての無い、でも貴重な一瞬に偶然写した一枚が忘れ得ない光景になるのだと思いました。それは体験した者にしかわからないものなのでしょう。

  5. 蛍の乱舞ですか。小生はまむしの里と聞いておりました。それにしても、D51も蛍もいなくなった加太でしょうが、何やら面白そうな計画が進んでいるよう、部外者ですが、多いに期待をしております。

  6. キハユニ15の懐かしい写真を見せてもらいました。ありかとうございます。
    1972年頃ですが、大阪府の柏原駅からこれに乗って、柘植や加太へ出かけたのが、昨日のことのようです。加太駅を行きかうD51やキハ35を日がな一日眺めていました。あのころの加太駅へもう一度行って見たい今日この頃です。

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