加太始発列車-1966年7月

デジ青読者の皆様、新年おめでとうございます。本年もどうかよろしくお願い申し上げます。

大晦日発、青信号特派員さんの『初の加太行き』を拝見しました。記事に加太始発列車の話題が出てきました。これに即座に応じるのが加太会員とばかりに早速用意しました。ただご覧の通り、雨の早朝とは言え、かなり下手くそな写真です。新年早々ご辛抱下さい。

特派員さんご想像の通り、亀山からD51のバック・プルで加太に到着。駅上りホームの西側に入線、客車を解放後、駅南のポイントから、上り本線を通り、亀山 方向に向かい、駅北のポイントでバックして、再び客車最後尾(加太に来る時)に連結すると言う段取りでした。駅員2名が信号手を努めていました。1966年7月24日でした。

▼機D51841【竜】駅南側ポイントから上り本線を順行、ホームを通過して北側のポイントに向かうところ
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 50年前の撮影地を歩く -8-

新しい年を迎えるというのに、古典ネタで恐縮です。アルパムを繰っていたところ、ちょうど50年前の昭和40年12月31日、加太へ初めて撮影に行ったことが分かりました。高校1年の時でした。その時の思い出で、今年を締めくくることにしました。

初の加太行き

列車で加太を通過したのは、記憶に残る限りでは、小学校の伊勢への修学旅行が初だった。京都の小学校の定番列車である“鳥羽快速”に乗って、草津、柘植を通り、加太を通過したはずだが、まるで覚えがなく、車内で撮った写真から乗ったのは背ずりが板張りのオハ61系だったことが分かるのみだ。時代が下って、昭和40年、「鉄道ファン」の撮影地ガイドに加太が載った。京都から数時間のところに、D51の咆哮が鈴鹿の峯にとどろいて…というフレーズを何度も読んで、イメージを膨らませたものだ。
加太行きを決意させた、もうひとつの理由がある。初めて一眼レフを手にしたのだ。ペンタプリズムのカメラは、憧れだった。それを持つだけで、上手い写真が撮れそうな気がした。機種は思い切ってニコンF、とも考えたが、家庭の経済環境も考慮して、アサヒペンタックスSVとなった。3万5千円ぐらいだったと記憶している。ところが、このアサヒペンタックスSV、露出計は内臓されておらず、軍艦部に取り付ける外付け露出計を買うことになる。そのため、一眼レフを特徴づける軍艦部が無愛想な露出計で隠れてしまい、カッコから入った私にとってはガッカリだった。
横道にそれたが、撮影地ガイドと、一眼レフを携えて、大晦日の加太行きとなった。うっすらと雪の積もった、寒い一日だった。
151229 009sy_R二十回近く通うことになる加太だが、蒸機廃止直前と違ったのは、特急が走っていたことだ。名古屋~東和歌山を一往復する「あすか」で、昭和40年3月改正で、紀勢本線の特急「くろしお」と同時に生まれた。この当時、準急「かすが」ですら区間短縮されていた時代で、特急需要など最初から見込みはなく、キハ80系が和歌山機関区に配置されたことで、その間合い利用を兼ねての運転だった。そのため、運転経路も名古屋~東和歌山となり、久宝寺からは阪和貨物線を経由して阪和線で東和歌山へ向かった。奈良を中心としたビジネス需要を狙った時間帯の設定ではあったが、乗車率は極端に低かった。改正半年後には、食堂車の営業休止、自由席などの合理化が図られたが、好転はしなかった。結局、わずか2年半走っただけで、昭和42年10月改正で廃止されてしまう。私も最終日は奈良駅で撮ったものの、走行中を撮ったのはこの一枚だけだった。

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C57110,C577

鉄道が好きな者、愛している者にとって事故ほど見たくないモノはありません。人は勿論、それが鉄道車両や蒸気機関車の姿におよべはなおさらです。ここに登場するC57110は、準特急さんの記述にある通り、悲惨な事故を経験してしかも、見事に復活を遂げた機関車です。デジ青のこのページ右上に検索用テキストボックスがあります。ここに『六軒駅』と記入して検索をかけて下さい。【7158】『亀山の参宮線事故機』と題した湯口先輩の投稿記事があります。事故の詳細がよく判ります。同時に3両のC51とこのC57110の悲惨な画像が見えます。とりわけC57110の姿は目を覆うばかりです。『台枠がさして損傷がないようだ』とのコメントがありますが、よくぞ復活したものと感心しています。

さて、加太越えの補機はD51が主体でしたが、時にC57も補機役を務めていました。撮影機会が何度かありましたが、下の画像はC57110、貨物列車の補機姿です。なお、この画像は村田屋旅館の物干し台から撮ったもので、手前には10数本の電線が写っていたのですが、すべて削除処理を施したもので、実際の姿とは異なります。
▼関西本線 加太-中在家信号所 貨763レ 補機 C57110 【亀】 1967.05.07   14836
14836こちらは本務機として。早春の午前6時半すぎです。
▼同上区間 客725レ 機 C57110 【亀】 1966.03.06                                       12502
12502変わってC577。有名な築堤を過ぎて亀山に向かう同機です。加太会発祥の日、急行大和を撮影後、一同気が抜けた時にやってきたので、構図もなく慌ててシャッターを切った一コマでした。初冬の午前7時半過ぎ。この列車が終着和歌山市駅に着くのは21時21分でした。
▼同上区間 客742レ 機C577【亀】 1964.12.06                  09708
09708

『雨も撮る』に寄せて-加太、大井川編-

今年の梅雨は空梅雨でしょうか。梅雨入り宣言を聞いた途端、晴れの日が続いています。
総本家青信号編集特派員さんによる、この時期ぴったしの記事『雨も撮る』に刺激を受け、真似しで、加太会などの写真を引っ張り出しました。題名を拝借して寄稿します。

地形の関係からか、曇りや雨の日が多かったのが加太です。快晴の記憶や青空の写真はほとんど残っていません。以下の記事も1966年夏から秋にかけて3回連続で雨の中、『恒例加太会』催行の一部です。

▼1966年5月22日、朝から雨です。それでも早朝の列車を撮るべく、朝食前に村田屋から駅まで片道20分を歩き、撮影しました。時刻は7時44分、722レ、機C57145【亀】。雨に洗われて機関車と客車の埃や汚れが洗い落とされたせいか、そして『カラスの濡れ羽色』か黒色が綺麗に見え、雨の日の特典に預かります。肉眼では木々の緑も鮮やかに感じます。一方、後方の山々は低い雲に隠されてしまいます。 撮影機は二眼レフのリコーフレックスでした。普段でも撮影し難い二眼レフをしかも雨の日に。13001▼その二眼レフで、雨中に722レを見送りました。この列車、草津を6時10分に出発。柘植・亀山・多気経由和歌山着21時34分。延々15時間24分の長距離列車。1966年3月25日の時刻改正から登場しました。わざわざこの列車に乗り込み、車内で撮影した写真を、しかも2枚も第1回のDRFC写真展『鉄路輝く』に出展した御仁がいました。タイトルは『普通列車』と『無題』です。早朝から一日同じ車内で、見知らぬ乗客の姿を窺っていたようです。当HPの、クローバー会/リンク/クローバー会写真展から、第1回写真展画像をご覧ください。なお現在、第2回目までの出品作がweb展示されています。13005

▼村田屋に戻り朝食後も、話が弾み雨を口実に誰も外出しません。邪魔草そうに村田屋の2階、物干し台からやっと一枚、電柱や電線があろうがお構いなし。。煙は高く上がらず列車にまとわりつきます。風向き次第では絵にならないこともあります。13007 続きを読む

カラフルDC-加太編(3)

l       鉄道車両の塗装  
 明治4年の鉄道開通時から、鉄道車両の塗装は施されていたようです。よく目にするのが、黒の蒸気機関車に赤のラインなど、焦げ茶か黒の木製客車に赤い帯や模様塗りなどです。カラー写真を目にしたことが少ないのですが、その後も鉄道車両、殊に官設鉄道車両の塗装は、黒系が多く、機関車や貨車は黒に限られ、客車はぶどう色塗装で赤・青・白帯が目立ちました。黒以外なら、戦前では特急つばめの客車に淡緑色塗装、阪神間のモハ52系に茶とクリームのツートンカラー塗装があったくらいでしょうか。(官設以外なら、明治時代から鮮やかな塗装の東京馬車鉄道などはありましたが)本格的な車両のカラー化は、戦後しばらく経った頃、湘南電車、気動車で始まったようです。
 

 車体の塗装目的は、当然のことながら、防錆、耐水、耐油性等の耐性付与です。乗客の便宜上や、美観目的などは、殊に戦前ではほとんど考えられていなかったようです。また、非「車社会」ですから、接近する列車を時間的に早い段階から認識する必要性も少なく、目立ちやすい色を車体に塗装するいわゆる安全性に配慮の必要性もなかったようです。
 
 それが、戦災日本の復興と共に、カラー塗装化が一気に始まりました。物の本(『国鉄電車のあゆみ』、『電車のアルバム』など)では、1949(昭和24)年に復活した京阪神間の流電が最初とか。ブルーの濃淡塗り分けだそうですが、カラー写真を見たことはありません(その前年、モハ52系が高速試運転の時、グリーンに塗られた車両をどこかで見た記憶がありますが)。関東地区では同年、モハ32系の塗り見本電車が現れたようです。先頭車両が二系統色に塗り分けられました。前面と側面が一対で片方に湘南色、片方がスカ線色でした。塗り分けの塗り分けですから、一車両に合計4色が塗られていたことになります。暗い戦後の払拭を望む人々に通じたのだろう、これが本格的な車両カラー化の先駆となり、翌1950(昭和25)年1月横須賀線にスカ線色、3月東海道線に湘南色電車が走り始めました。

 
 一方、気動車(ガソリンカー、ディーゼルカー)はどのようだったでしょうか。川上幸義著『新日本鉄道史』によると、1935(昭和10)年、キハ42000の鮮紅色、のちの青色と灰青色の塗り分けが最初だそうです。戦後1950DCの運用が再開され、1952年湘南型の正面を持つキハ44000系が誕生し、DC化時代の幕開けとなりました。この時の塗装は上記青色と灰青色の塗り分けだったようです。DCはその後も『旧一般色』と呼ばれた青色と黄褐色の塗り分けに、屋根は青灰色でした。そして1959年、我々に馴染みの『新一般色』が誕生。クリーム色4号と朱色4号のキハ11系。クリーム色2号の地に赤2号の準急用キハ55系や51系などです。(この項、星 晃「国鉄車両の色」、鉄道ジャーナル461号、 20053月 を参照)

 
 このあたりからは説明不要でしょう。その後のカラフル時代は電車、客車、機関車、DCを問わずすさまじいばかりです。車体塗装の色分けには、ご存知もう一つの目的、乗客向け用の利用路線の見分けがありました。最初の頃はその目的も達成されたでしょうが、最近は複雑で戸惑うばかりです。

 
 近年、不景気も手伝い、さすがにある程度統一をとか、JR別に色分けしようとかの動きが新聞発表や当デジタル青信号にも掲載されていました。それも結構ですが、ある程度は適度な色彩感覚も持っていただきたいですね。レンガ色の一色塗装など、けばけばしい色使いで周囲の風景とマッチもせず、飛びぬけたような色使いはあまり感心しません。
 
  

 加太を通過したDC群は、カラー化時代の初期の頃でした。そして穏やかでのんびりとした周囲の山々や、人々の大切な田圃や畑ともよくマッチしていました。蒸気機関車の牽く列車と共に、DC列車の通過を見ているだけで我々には生命の洗濯となったものでした。

16.714D急行『平安1、志摩2、くまの』、なんと11連。空も山々も初夏の様子です。

17.338D、初夏の田畑はまもなく夕方です。

 
18.712D、田んぼに水が引かれ、幼苗も育っていて田植えが近いようです。


19.
加太トンネルの上から、眺めた中在家信号所。左が332D、信号所をノンストップで下ります。右は333Dで待避中、この後一旦、山すその引込み線に後進、再び前進して本線に戻り加太トンネルに向け坂を上ります。柘植では草津行きと湊町行きに分かれます。


20.213D急行「かすが2号」キハ55、キロハ25、キハ58など。山々はすっかり緑です。