天然色写真で語り継ぐ あの日あの時 【2】

国道2号線のど真ん中を走った路面電車(昭和50年5月)
“阪神国道電車”、縮めて“阪国(はんこく)”と呼ばれた路面電車も、廃止されてから45年が経ちました。大正期、大阪と神戸の間に、新たな国道を建設することになり、阪神電鉄は、道路の中央に路面電車を走らせることになりました。別会社の阪神国道電軌を設立し、昭和2年に野田~東神戸の国道線の全線26.0kmを一挙に開業します。さらに、大正時代に開業していた北大阪線(野田~天神橋筋六丁目4.3km)、甲子園線(上甲子園~浜甲子園~中津浜3.6km)と合わせて、阪神電鉄の軌道線を構成し、正式には、阪神電鉄併用軌道線となっていました。車両は阪神国道電軌が開業時に製造した1形と、“金魚鉢”と呼ばれる側窓の大きな71、201、91形があって、三線で共通運用されていました。
北大阪線の天神橋筋六丁目で発車を待つ“金魚鉢”の201形、左手背後は、当時、阪急天六ビルで、もとは新京阪鉄道が建設した7階建ての駅ビルで、ターミナルビルの先駆けだった。北大阪線の野田~天神橋筋六丁目は、阪神電鉄の子会社に当たる北大阪電気軌道が建設認可を受け、阪神電鉄と合併したあとは、阪神自らの手で道路を新設して路面に線路を敷いた。


尼崎市内の国道線、大島~浜田車庫前を行く。国道2号は大正時代に新しく敷かれた道路だけに、ほとんど直線で、この付近でわずかにカーブするだけだった。▲大島~浜田車庫前を、阪神バスと並んで走る。国道線の西半分、上甲子園~西灘~東神戸は既に廃止になっていて、残っていたのは野田~上甲子園だった。阪神本線と平行する国道線は、とくに乗客が少なく、末期の昼間は、48分ヘッドと路面電車にあるまじき運転間隔だった。甲子園付近の甲子園線。武庫川の河川改修用の引込線を利用して、建設されたのが甲子園線で、廃川跡には野球場や遊園地、プールが造られて、利用客を電車で運んだ。なお浜甲子園~中津浜は昭和20年に廃止されており、当時は上甲子園~浜甲子園だった。付近は甲子園だらけで、いつも準特急さんが例えられる“甲子園、甲子園、甲子園野球場前です。甲子園線、上甲子園、浜甲子園方面はお乗り換えです”の阪神電車の車内アナウンスの形態模写は有名。多くの家族連れで賑わっていた阪神パーク前を行く。阪神パークの全盛時代は、写真の頃で、年間130万人余りの入場があり、“レオポン”で有名だった。甲子園線は阪神本線と十字に交差していて、行楽・野球輸送以外にも、通勤・通学客が多かった。安全地帯のない、こんな停留場からも多くの乗降があった。甲子園九番町甲子園九番町付近は、閑静な住宅地だったが、電車通りには小さな店が並んでいた。

 天然色写真で語り継ぐ あの日あの時 【2】」への9件のフィードバック

  1. 懐かしいですね。阪神バスの色が。電車もいいですがバスの車体のどんな塗装をしていたかカラーであればよくわかります。ところで、阪神パーク前の写真、車も電車もいま流行の逆走をしていますね。文字も逆走です。

    • どですかでん様
      コメント、ありがとうございます。とくにカラーの場合、バスの塗色には最適ですね。阪神バスの旧色は、銀色の鱗模様があり、なかなか高級感のあるカラーでした。
      はい、“逆走”は、昭和の時代からもあったのです。世間ではほとんど知られていませんが、甲子園付近は、タイガースの試合や高校野球の際、押し寄せる観客が車道までハミ出すため、特別に警察が認可をして、電車もクルマも逆走していたのです。クルマはまだしも、電車の場合、よくぞ正面衝突しなかったものと感心します。阪神パークも、逆走に合わせて文字を逆にするという徹底ぶりでした。今ならすぐにSNSに挙げられて、ワイドショーで“危険な運転”と速報されるでしょうね。昭和の時代ならではの思い出です。と言うのは、真っ赤なウソで、スキャンの際、裏焼にしたままになっていました。元通りにしましたので、改めてご覧ください。

      • よくわからないが最初の裏焼の写真の方が印象に残っています。元に戻った写真の方があまりにもありふれていて・・・頭がおかしくなったのでしょうか。今、テレビでエッシャーのだまし絵を見ていて余計にそのように感じたのかもしれません。もう一度みたいな~裏焼の写真を

        • はい、ご要望にお応えして、裏焼きの裏焼きを載せました。お書きのようなことは、引伸機でモノクロ写真を伸ばしていた時にも感じましたょ。何故か、裏焼き写真は、新鮮で決まった写真のように感じました。

  2. 最近、大阪市内から兵庫県に入った最初の町、杭瀬が気になり、訪問調査をしています。
    杭瀬団地は、阪神本線から遠く、JR線との中間にあり、杭瀬の商店街は規模が大きく、北側の団地側がまだ元気ですが、本来賑わっていた南地区は、この国道線廃止から廃れ始めて行き、非常に危うい状態でアーケード内は空き店舗だらけです。
    国道線廃止から40年経ち、町づくりのプラン検討が必要ですが、財政基盤の弱い尼崎は、全く手付かずのようです。
    調査と言いながら飲んで歩くだけですが、飲み屋エリアは阪神本線と旧の国道線の間に蝟集していることも興味深いゾーンです。

    • 久しぶりのコメントをいただき、ありがとうございます。杭瀬は、阪神本線と国道線が最も接近しており、ここに連絡線が設けられていました。もちろん営業電車は走りませんが、国道線の電車を本線尼崎車庫へ回送・検査する際に利用され、早朝・深夜など、“金魚鉢”が本線を激走していた目撃談がありました。昭和42年に本線が昇圧したため、行き来は出来なくなりましたが、連絡線は昭和50年の国道廃止まで残っていて、廃線跡は道路に転用されています。杭瀬の知られざるエピソードでした。

  3. 総本家青信号特派員様
    阪神電車の車掌さんのアナウンスはこんな感じでした。「次は甲子園、甲子園(野球場前)でございます。上甲子園、浜甲子園方面は甲子園線にお乗換え願います。甲子園の次は西宮(尼崎)に停車します。」とこんな調子で2回放送していました。当時は「ございます、願います」調でこれを毎日聞いている御乗客の皆さんは「うるさいな!」と感じる人の方が多くなったのでしょう。今はどこも「です」調で同じことを2回繰り返すのはやめたようです。マルーンさんからもある時阪急電車も同じように変更したとお聞きしたことがあります。話は変わりまして総本家さんも付き合いが広いのか同じ趣味の世界でも風貌や話し方の似た人を見つけるのが得意で当会の最長老の一人でありますY先輩と鉄道写真の第一人者が似ていると指摘され、さらに先日は鉄道葉書写真で有名な方と私が似ていると言われました。私も歳を取ってきましたが何かまた発見してやろうと思っております。

    • 準特急さま
      阪神電車のアナウンスの形態模写、ありがとうございます。準特急さんは、飲むほどに酔うほどに、各地、各時代の車掌の形態模写が炸裂し、時に、北海道の急行のアナウンスでは旅情を感じ、東京の私鉄のアナウンスでは関西・関東の違いを確認しました。鉄道趣味人で似た人を結びつけるのは、準特急さんこそ名人で、人物観察の鋭さに感心しました。でも、この前の会合で、初めてお会いした、鉄道絵葉書の収集家Sさんは、挨拶を始められた途端、“これは、まるで準特急さんそのもの”と思いました。その風貌、話し方、背格好まで、まるで同じでした。

  4. 何れにしましても大した風貌ではありません。ところで余計なことですが私は阪急今津線沿線に住んでいましたが、この短い路線で未だに阪神国道という駅だけは降りたことがありません。今はこのあたりは今津南線というらしいですが、ここは甲子園球場にたまに野球を見に行くときくらいしか利用しませんでした。車掌さんは「次は阪神国道、阪神国道でございます。国道電車はお乗換え願います。」とこんな調子でアナウンスしていました。勿論各社とも学生服のような制服姿の時代です。

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