やっぱり蒸機が好き! 《九州》列車・線区編 7 高森線

過去の寄稿を再録する列車・線区編、つぎは高森線です。豊肥本線立野から分岐する国鉄高森線は、高森までの17.7kmの路線、昭和61年4月に第三セクターの南阿蘇鉄道に転換されました。2016年4月の熊本地震で、トンネル・路盤に大きな損傷があり、いまも立野~中松が不通のままで、中松~高森で離れ小島のように運転しています(以下、特記以外昭和47年11月)。

 

立野を出てすぐの立野橋梁を行く高森線の列車、トレッスル橋脚で、長さ136m、高さ34m、下まで降りる道があって、川底からでも撮れた。

白い蒸気に列車が包まれて乗客のシルエットが高森駅のホームに浮かぶ。初冬の九州、6時発の始発列車は、夜明けにはほど遠い暗闇の世界だった。

高森駅駅舎と駅名標、駅前はまだ未舗装だった。日ノ影線と結んで延岡まで結ぶ計画は途中で挫折し、終着駅のままとなった(昭和42年3月)。

晩秋の高森駅、朝早く駅近くのユースホステルを抜け出して来たものの、駅は闇の中だった。阿蘇外輪山の特徴ある山稜さえ定かでない。起き抜けの身体を冷気が包み込み、寂寞の思いが増してくる。沈み込んだ駅構内に、C12の吐き出す蒸気の音だけが、唯一の生き物のように響き渡る。駅に集まってきた乗客たちは、押し黙ったようにスチームの効いた車内に吸い込まれていく。6時ちょうど、空を切り裂くようにC12の甲高い汽笛が響き渡った。鋸のような外輪山の山の端だけが、わずかに赤みを増してきた。高森を発車した列車はすぐ右にカーブする。

二番列車となる7時55分発の124レ、通学の高校生で2両の客車は満員だった。

鋸のような特徴的な阿蘇の外輪山を背景に高森を発車した124レ

6時、という高森の始発列車の時刻、時刻表を紐解くと、1、2分の差こそあれ戦後ずっと同時刻で運転されている。高森の人たちにとっては、まさに時報代わりの始発列車の汽笛だったのだろう。こうして、高森線の一日が開けていく。

高森線は、阿蘇外輪山の切れ目に当たる豊肥本線立野を始発として、高森まで17.7kmの路線である。スイッチバックの豊肥本線は元の方向へ逆行するが、高森線は豊肥本線を延長した形で立野を出る。外輪山が造り出した深い渓谷を白川橋梁などで渡ると、阿蘇五岳と外輪山に挟まれた、南郷谷と呼ばれるカルデラ盆地を進む。もともと延岡まで結ぶ予定が夢叶わず途中の高森でストップし、以来、典型的なローカル線として細々と命をつないできた。

高森には給炭台と一線のみの庫があり、小さいながらも駐泊設備があった。模型のような構内でC12は一夜を送り、翌日の始発列車に備える。

昭和40年代後半には、高森線は一日6往復の運転で、うち2往復は熊本へ直通するDC列車、残り4往復がC12の牽く客車列車だった。昼間の一往復は、混合列車として設定されていたが、他の客車列車も混合列車となることもあり、ローカル線には不似合いな長い貨車編成も見られた。朝夕一往復は、熊本を始終発とする客車列車であり、9600牽引の豊肥本線列車に併結されていた。その後、DC化が促進されるものの、6往復体制は第三セクターの南阿蘇鉄道に移管される昭和61年まで続く。C12は、熊本区の2輌配置のうち1輌使用、4往復をこなしたあと、高森で駐泊する。C12が検査などで熊本区へ戻る際は、9600との重連になったという。

しかしC12という機関車、これほど華のない機関車も珍しかった。昭和47年4月段階では全国で33輌が配置されているものの、ほとんどが入換、小貨物用で、地味な機関車と映るのも当然だった。

長陽で下車する高校生をいっぱい乗せた128レは鉛色の空に白煙を噴き上げ立野へ向かって行った。

中松で127レを降り去って行く列車を追ってみた。冬枯れの野に冷たい風が吹き抜けた。

C12が生まれた経緯をたどると、昭和4年、許容軸重による線路等級が新たに分類され、特別甲線、甲線、乙線、丙線の4等級に細分化された。次いで昭和7年には、利用の少ないローカル線の建設費を極力抑えるため、さらに簡易線規格が加えられた。C12は、その簡易線規格用としてあらかじめ準備製造され、規格制定の同年に誕生した。同じタンク機のC11と性能を比べても、いかに輸送量の少ない線区用の非力な機関車かが判る。デフは運転速度が低いため、省略されている。

このように生まれる以前から簡易線用として運命づけられたため、蒸機の持つ迫力や力強さとは無縁の存在だった。その分、C12の走る線区は、純日本的な趣きのあるローカル線であり、大型蒸機の走る線区とはまた別の魅力を持っていた。(つづく)無人の中松駅、初冬の光景が、開け放った改札口から額絵のように見えた。

阿蘇五岳を背景にして高森へ向かう127レ、逆行運転のC12は自分より大きな客貨車を懸命に牽き上げる。中松~阿蘇下田

昭和47年10月改正の時刻表 一日6往復、うち4往復がC12の牽く混合列車だった。

 やっぱり蒸機が好き! 《九州》列車・線区編 7 高森線」への2件のフィードバック

  1. 1991年の夏に家族旅行で阿蘇に行った時、南阿蘇鉄道のトロッコ列車に乗りました。やはり高森鉄橋としてなじみのある白川第一橋梁が最大の山場でした。ちっちゃい機関車のうしろはどうもコトラに乗車できるようにした(これは客車と言っていいのかわからないのだが)ものに機関車のすぐ後ろに陣取って、目線は機関車の運転席のような感じ。この状態で高森鉄橋を渡ると写真のような感じになります。ちょっと怖い、やはりかなり怖い。

    • どですかでん様
      南阿蘇鉄道の思い出、ありがとうございます。これは立野橋梁を渡るところですね(上記の写真キャプション、白川橋梁としましたが立野橋梁の誤りでした。訂正しておきました)。立野橋梁もそこそこの高さがありますから、さぞ爽快だったでしょう。以前、北丹鉄道の貸切列車でも同様のことをしたことを思い出しました。この時も悪ノリして、DBのデッキに乗って、途中の鉄橋を通った時、ちょっと怖かったけど、いい思い出になりました。

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