ほぼ50年前 同月同日メモリーズ  ④

昭和44(1969)年7月29日 真夏の宮津線・加悦鉄道合宿 (2)

風の通らない蒸し風呂のようなテントになかで、朦朧としながら、朝を迎えました。昨日は暗くてよく分からなかったものの、加悦駅の構内で寝たはずなのに、明るくなって周囲を見てみると、田んぼのあぜ道のようなところで寝ていたことが分かりました。参加者全員、もう一泊する気力・体力はなく、全員一致で「解散」を決議、この後の行動は、各自に一任となりました。

朝の加悦駅構内、転車台に乗った2号機、木造単車、DLなどが留置されている。

4号機関車、国鉄1250形と同型のCタンク機、ほかの蒸機とともに、休車状態だった。その後、加悦SL広場で保存展示されたが、閉園により、現在の所在は不明。加悦鉄道では、11往復の列車が走っていて、まだ旅客需要があった。昼間はおもにキハ51が単行運転していたが、朝のラッシュ時は、DLが東急から来たサハ3104を牽いていた。しかし夏休み期間は高校生が乗らないため、7:20発の丹後山田行きは、キハニ51+キハ101という、ボギー+片ボギーの珍しい編成だった。この列車に乗って、全員が退散。

宮津線の列車に乗り換えて、丹後由良で下車、栗田寄りに歩いて9600の牽く下り列車を撮る。当時の時刻表で見ると、海水浴シーズンのため、339Dを客車列車に置き換えていたようだ。続いてC58 80[西]の牽く324レを撮る。右手に丹後由良駅構内が見える。丹後由良を10:37に発車した、9600の牽く「はしだてビーチ」、丹後由良から少し歩いた地点で待つ。日陰が全くない田んぼのなかで、ひたすら待っていた。由良川鉄橋へ、こちらもDC列車置き換えの客車列車のようだ。そのあと、由良川鉄橋を渡って、丹後神崎側へ移動している。鉄橋の横の通路の一般の通行が黙認されていた時代だった。唯一、同行メンバーが入った写真を撮っていた。左の3人、I原さん、T君、F本さんが、C58列車を待つところ。海水浴へ行ったメンバーも多かった。C58 80[西]の牽く、下り列車、これもDC置き換えのようだ。丹後神崎を発車して、由良川鉄橋まではキレイなカーブになっていて、背後の山の形も良い。ただ、この暑さでは、発車直後でも煙はない。「はしだてビーチ」編成は、夜になると「音戸」で使うため忙しい。終点の天橋立に着くと3時間で折り返して、由良川を渡り京都へ向かう。すぐ向日町に戻って、寝台のセットに掛かる。先ほどのカーブで次の列車を、ぎりぎりの低い位置から狙ってみた。時刻表から推察すると、15:24発の列車で丹後神崎を去っているようだ。これも9600の牽く客車列車だった。改めてフィルムを見ても、この日、DC列車は全く写っていない。メモが残っていないので断定はできないが、全列車、収容の多い客車編成に置き換えていたのだろうか。たしかに若狭・丹後方面の海水浴輸送も、昭和40年代の前半がピークだったのだろう。貨物用の9600も混じって、宮津線の大輸送が繰り広げられていた。合宿は途中で敗走するという結果だったが、お蔭で、宮津線輸送の最も暑い一日を見た思いだった。

西舞鶴駅、普段は入線しない福知山区のC57も、舞鶴線の列車を牽いていた。西舞鶴で乗り換えた福知山行きは、前にC58+C57、後部にD51を連結していた。

 ほぼ50年前 同月同日メモリーズ  ④」への14件のフィードバック

  1. 楽しい、猛暑と闘う先輩方の活躍を拝見させてもらいました。
    「音戸」のハネが「はしだてビーチ」に間合い運用されていた事実は、関西に出て来て知りました。貴重な冷房付きの客車だから、臨時列車に充当すれば喜ばれるだろうという発想。3人掛け対面シートも冷房が貴重な時代、あるだけで歓迎されるのでないか。今思うと面白いユニークな運用でした。
    あと宮津線区間の気動車列車を海水浴期間に客車で運行していたことも初めて知りました。
    こうやって考えると、国鉄時代は「今ではありえない」運用もローカルでは数多くて、実に地味だけれど多彩な運用が出来ていたことを知ります。
    日本語にある「弾力的」運用という言葉は、予備車両の1両も減らす現在のJRでは全く無理になり、余裕の無い社会を現在の我々は生きているのだなと痛感いたします。
    気動車を蒸機に変えたら、機関士、機関助手が要り、どうやって勤務態勢を調整したのか気になります。
    ところが現在、SNSなどの投稿を見ると、国鉄時代は新形式の機関車が登場すると”労働強化”と言って強く職員組合が抵抗したからEF66以降の新形式が出なかったという巷聞が良く書かれて、EF64 1000番台は本来別形式で登場する予定だったけれど組合の反対で64の一区分になったような記述を見かけ、それがまた伝播で広がり、国鉄時代への知らない世代が、偏った先入観になっている印象を感じます。
    今回の記事を読ませて貰い、国鉄の現場の努力の名誉回復と、ほらこんなに現場は今よりフレキシブルだったのだよと、言いたくてコメントしました。
    添付写真は最晩年の下関「音戸」でお約束のEF61が牽いています。
    先頭のスハフ42はS50年新幹線開業ダイヤ改正の関係で、回送車が連結されているようです。

    • K.H.生さま
      EF61の「音戸」、ありがとうございます。この時代は下関までの運転でしたね。予備車の比率が、当時と現在ではどう違うのかは、分かりませんが、宮津線の例のように、DCをほぼPCに置き換えるなど、大胆というか、弾力的というか、労使の摩擦を恐れず、予備車も含めて、あくまで乗客第一に考えられていたと思います。

  2. 「テントにヘビが入ってきた」とえらい騒ぎになったのがこの合宿でしたかね。張る場所がいけなかったのでしょう。
    ともあれ、酷暑の中全員生還できたのはなによりでした。
    つい先日、与謝野町役場加悦庁舎の向かいに移築された加悦鉄道資料館と旧加悦SL広場に行ってきました。
    下は加悦鉄道資料館、画面左が2号機です。

  3. 旧加悦SL広場は立ち入り禁止になっていて、大部分の車両がブルーシートで覆われていました。

    • 加悦の現況、ありがとうございます。旧駅前の資料館はずいぶん美しく整備されたようですが、山のSL広場は残念な結果となりました。4号機など、もらい手の決まらなかった車両は、朽ちて行くのみでしょうか。

  4. この日は、特派員さんと一緒に宮津線の蒸機列車を堪能しました。
    帰りに西舞鶴から乗った列車は、天橋立発と小浜発を併結した11両編成の臨時の谷川行で、C58+C57が牽引して、後にD51が連結された豪華編成でした。
    8月7日、梅迫~真倉間でこの列車を撮影しましたが、列車を待っている間に曇ってきて雷が鳴り出し凄い夕立になりました。

    • 藤本哲男様
      これは久しぶりに堂々たる蒸機客車列車を堪能させていただきました。谷川行きも珍しいですね。それにしても貴兄は雷や蛇に強いのですね。

    • 帰りに丹後神崎から乗った列車は、小浜発を併結した谷川行きでしたか。たしかに谷川という聞きなれない行き先の列車が走っていたものです。1週間後に再挑戦されたのですか。前後3重連で、形式も違っていたのは、たいへん珍しいと思います。
      なにせ私は記憶がないのと、メモも同月の時刻表もなく、かなり曖昧です。

    • C58+C57+客車11両+D51とは、見事な編成ですねえ。たまたま昭和44年7月の時刻表が手元にありましたので、調べてみると良く考えられた列車でした。簡単に言うと東舞鶴-福知山間の定期列車に、天橋立―谷川間の臨時列車を併結したものです。しかし、海水浴客輸送に対応して運転区間が延長され、複雑になっていました。
      元となる列車は東舞鶴発福知山行きの940ㇾですが、7月20日から8月10日までは若狭和田まで延長運転されていました。若狭和田を16時20分に発車し、隣の若狭高浜は16時27分に発車します。次は東舞鶴まで停まりません。関西人に人気の和田・高浜から帰る海水浴客をターゲットにしたのでしょう。
      西舞鶴には16時57分に到着し、天橋立から来る臨時列車を待って併結し、17時13分に発車します。福知山までの区間が重連+後補機付きの豪華編成となりますが、若狭和田始発の客車は福知山止まりです。天橋立始発の客車は篠山口行きの742列車に併結され、谷川まで運転されます。谷川には19時19分に到着し、天橋立からの客車を切り離した後、19時28分に終着駅の篠山口へと発車してゆきます。ところが、この742列車も海水浴客輸送に対応していて、普段は豊岡始発ですが7月20日から8月10日までは香住まで延長運転されていました。
      時刻表を見ただけでは理解できず、図を描いてようやく呑み込めました。
      行きの列車も設定されていて、やはり福知山―東舞鶴間の定期列車に臨時列車が併結されたもので、定期列車も海水浴場最寄駅の若狭和田まで延長運転されていました。
      昭和45年は時刻表が無くてわかりませんが、2年後の昭和46年にも同様の列車が運転されていました。

      • 紫の1863さま
        複雑な運用を解明いただき、ありがとうございます。私は夏の臨時列車が載った時刻表がなく、改正号をもとに、運用を辿ってみました。30分掛けて、よ~く分かりました。私が丹後神崎から乗った列車そのものが、天橋立発谷川行きの臨時列車だったのですね。小浜線、舞鶴線、宮津線、山陰線、それに福知山線までを有機的に結び付けています。くだんの742レも篠山口で10数分待てば、大阪行きに接続していますから、丹後・若狭と京都・大阪をパズルのようにして結び付けていました。

  5. 「はしだてビーチ」は撮ったことがありませんが、「わかさビーチ」を保津峡で1枚だけ撮っていました。昭和43年7月22日です。C57に牽かれて保津峡駅を京都へ向けて通過してゆきました。ピンボケは暑さのせいということにしておきます。

    • 西村様
      保津峡での貴重な写真、ありがとうございます。客車はハネのように見えます。「わかさビーチ」は歴代DCだったように思います。やはり「はしだてビーチ」ではないでしょうか。

      • 総本家青信号特派員殿
        やはりそうでしたか。当時のメモに「わかさビーチ」と書いてあったのですが、あの頃は正確な情報がなく、間違ったようです。駅対岸に行ったものの、思っていたほど良いアングルがなく、暑さもあって早々に引き揚げた記憶があります。

        • 西村様
          私もこの時期の臨時列車を過去にも調べたことがありますが、まだ分からないことだらけです。一番の基礎となる時刻表も、ダイヤ改正号は保存していますが、夏の時刻表は廃棄しています。さらに、海水浴用などごく短期間の臨時は、時刻表にすら掲載されないものもあります。結局は、自分のメモ、記憶が頼りですが、50年も経つと、資料は不明で、記憶も飛んでしまいます。

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