ほぼ50年前 同月同日メモリーズ  ①

「50年前の同月同日シリーズ」をことし冬に投稿しましたが、予想どおり途中で挫折してしまいました。やはり「50年後の同じ日に投稿する」制限を加えると、その価値は認めるものの、書き手としては、相当な重荷となって、いつの間にやら中断してしまいます。考えるに、48年前であろうと53年前であろうと、今となっては大した問題ではなく、毎日更新をウリとする“デジ青”で価値があるのは「同月同日」の部分だと分かりました。そこで「ほぼ50年前」と看板を改めて、少し気分をラクにして「同月同日」シリーズを適宜、載せて行きます。

昭和43(1968)年7月22日 灼熱のなかの大阪市電

京都市電はあれほど撮っているのに、近くの大阪や神戸の市電はほとんど撮っていません。駅ターミナルへ行くことはあっても、市電が走っている街なかへ出掛けることもありませんでした。それが大阪万博を前に、市電がつぎつぎに廃止されて、他所の街ながら、気がかりになって来ました。

この日の本来の目的は、城東貨物線の蛇草信号場へD52を撮りに行くことで、初めて大阪のミナミへ足を踏み入れて、「天王寺西門前」へ来た。市電上町線が走る谷町筋と、市電天王寺線の走る国道25号線が交差するところで、現在の「四天王寺前」交差点である。写真は、交差点東北から、上町線を見たところ、この左手奥が阿部野橋(天王寺駅前)となる。左手には、信号塔のあるのが分かる。ここで、阿部野橋発の1号系統が大国町・四ツ橋筋へ向かって左折するため設けられている。谷町筋はこの直後に倍以上に拡幅され、今では全く面影は残っていないが、「エコー歌謡学院」という看板が見える。ここは、松山恵子や藤島武雄を生み育てた、大阪の名門の歌謡学院だったそうな。

「天王寺西門前」交差点の東南角から交差点を見ている。奇しくも3001形同士が行き交うのも、格上の上町線らしい。とにかくクルマが多くて、邪魔ばかりさせられるが、今となっては、お尻を見せた大阪市バスとともに、当時のいい記録となった。

通天閣を入れようと、東西方向に走る天王寺線で市電を待つ。ここでは今里車庫の2001形ばかりが来る。撮影場所は「天王寺西門前」の西行停留場前か。右奥のスペースは、谷町筋の拡幅のために立ち退きた空き地のようだ。

通天閣が良く見える「天王寺公園前」まで来た。天王寺公園に沿っていて緑も入るものの、とにかくクルマが多くて邪魔される。トラックがバンバン来るのは、京都の街なかでは見られない風景だった。

2001形は、見るからに分かる、戦後間もなくの製造、台車も戦災車のものを流用している。2001~2040の40両が造られた。

天王寺西門前~天王寺公園前で、オート三輪と並行しながら走る。京都市電なら必需品の系統板も横サボも大阪市電には無い。観光客など不案内な乗客が乗ることを想定していないところも大阪市電らしい。

今回の撮影の「天王寺西門前」(右上)付近の大阪市電路線図(日文研所蔵地図を転載)

 ほぼ50年前 同月同日メモリーズ  ①」への3件のフィードバック

  1. 暑中お見舞い申し上げます。
    「月の法善寺横町」は藤島桓夫だと思います。
    よく前違えるのが、やはり大阪ゆかりの作家、石浜恒夫で、こちらは恒の字です。
    実際の法善寺ヨコチョウは横丁と書きますが、昔は大らかだったから、結構いい加減。それより歌謡学院の入っていたレトロな三階建てビルは、何か前身がありそうで、とても気になりました。
    失礼いたします。

  2. 石浜恒夫といえば
    「なんで泣きはる 泣いてはる~・・」で始まるフランク永井の“こいさんのラブコール”をおもいだします。
    横から失礼しました!(横山東六風に)

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