ここはどこ?わたしはだれ?京都市電編 ①

いよいよこれからが本番の「京都市電編」です。
写真は開通間もない京都市電を市内各所で撮影したものです。
それだけに京都にゆかりのある我々は撮影場所を正確に言えなければなりません。
幸いにも京都の風景は他都市に比べて変化が少なく、今でも当時と変わらない町並みが残っているところもあります。よーく写真の細部を見て何処で撮られたのかを言い当ててください。地元ですからどの方角からどの方角に向かって撮ったのかも、現在の同じ場所の写真があれば貼って比較させてください。
撮影時期も大体でもいいので教えてください。

では、はじめ!

つづく

ここはどこ?わたしはだれ?京都市電編 ①」への26件のフィードバック

  1. 待ってました! いよいよ本命の京電・市電編が始まりましたねえ。
    石井行昌氏は烏丸今出川付近にお住まいがあったので、開業時から多数の写真を撮影されております。とりあえず、⑳について書いてみたいと思います。
    撮影場所は千本今出川で、西南角から東を向いて撮影されています。千本通の線路が今出川まで達したのが大正元年9月12日、今出川通の線路は大正元年11月21日に今出川大宮まで開通しています。撮影時期は電車の右に見える男性(銭湯へ行くのか小脇に桶を抱えているようです)の服装から、翌年大正2年の晩春から初夏の頃かと思います。
    電車の右手に見える松の木は般舟院陵の参道、奥にうっすらと見える大きな屋根は上京第五番組小学校(現嘉楽中学)です。
    ここまでは以前から調べが付いていたのですが、右手角の商店がわかりませんでした。しかし、しつこく調べていると何とかなるものです。現在この場所は三菱東京UFJ銀行ですが、昭和20年代までは文具を扱う「青谷商店」がありました。看板をよく見ると下段に「店商谷青」の文字があり、「各國産紙」を扱っていたようです。「文具の青谷」は地元では良く知られ、私も良く買いに行ったものです。場所は北東に移転しましたが、南側から市電を撮った背景によく写り込んでいました。
    人力車がたくさん並んでいますが、営業所があったのか、それとも今のタクシーの溜まり場のように、客待ちをしていたのでしょうか。近くには北野天満宮や上七軒もあり、市電から乗り継ぐ需要も多かったのでしょう。
    電車の行き先はさすがに読めません。しかし、三文字であることは分かります。この電車は南行きで、丸太町で東に向きを変え、烏丸を通って京都駅に行った系統があったようです。さて、三文字の停留所はどこでしょう。京都駅ではありません。私の推理ですが「府廰前」ではないかと考えました。大正初めには京電の府庁前もあり、市電でも行けることをアピールしたのではないでしょうか。
    同じアングルの写真が無く、お見せできないのが残念です。

  2. おお~っ!お宝写真が沢山ですね!
    月曜日は神戸で仕事をしており、帰宅してデジ青を拝見するのが遅くなりました。
    とりあえず④について…
    四条烏丸交差点、西北方向を見ています。烏丸通を南下する市電広軌1型13号、行き先表示は「七條」でしょうか。交差点通過に備えて車掌がポールのロープを操作しているのが見えます。
    中央の大きな二階建ての建物は「鴻池銀行京都支店」。後に「三和銀行」となり、現在は「LAQUE四条烏丸」となっています。四条線、烏丸線ともにこのあたりは1912年(明治45年)6月に開業していますので、撮影されたのは大正初期でしょう。


  3. 今出川通りから烏丸通に入って南下するのは、広軌1型18号「烏丸七條」行き。烏丸線が烏丸今出川まで北へ延伸開業するのが1913年(大正2年)5月で、今出川線が烏丸今出川から寺町今出川まで東へ延伸するのが1917年(大正6年)10月ですから、この間の撮影ですね。
    さて、左正面に見える商店が気になります。「岩佐」「たかしま家」とあり、太物(綿布や麻布)を扱う呉服店のようですが、「煙草」「諸売薬」ともあり、「蛇印アンチピリン丸」「大学目薬」「健脳丸」の大きな看板も掲げています。そして「京都市営電車回数乗車券発売所 今出川烏丸角 岩佐商店」の表示は3枚もあります。

  4. 20枚もあると、どれから手を付けてよいのか迷います。まあ、じっくりと楽しませていただきます。
    ④の四条烏丸交差点は、見れば見るほど色々なことがわかります。交差点中央に建つものものしい鉄塔には、電球式信号機があるようですね。しかし、車の姿は見えず、道路の真ん中を堂々と歩く人もいて、優雅な時代だったことを感じます。
    ⑭も同じ四条烏丸交差点で、烏丸通には「梅林堂」ののれんが見えます。店先には和傘が並べてありますが、何を扱っていたのか詳細は不明です。角には「京都市営電車 車掌 運転」と書かれた張り紙が見え、乗務員の募集を告知していたのでしょう。
    ⑩の烏丸今出川交差点西南角の「岩佐商店」は、おそらく店主が滋賀県高島の出身で「たかしま家」と付けたのでしょう。百貨店の高島屋は1912年、烏丸高辻に出店していますので関係ないでしょう。わかりにくいのですが、岩佐商店の右に「食パン」の小さな看板が顔をのぞかせています。大正の初めころ、京都では広く食パンが出回っていたことを感じます。
    さて、⑯は四條御旅町です。祇園祭の神輿が7月17日から24日まで鎮座する、四条通南側にある御旅所の前から西を向いて撮影されています。中央の白い洋館風の建物は新京極入口の交番だと思います。和風の木造建築ばかりが並ぶ四条通にあって、ハイカラな交番はひときわ目を引いたことでしょう。左手にうっすらと見える大きな建物は現在の大丸の前身で、四条通の拡幅と市電の開業に合わせ、1912年に竣工した大丸呉服店です。
    この付近の開通は1912(明治45)年6月11日ですので、遅くても大正の初めころまでには撮影されたと思います。

    • ⑭の梅林堂ですが、同店の引き札(チラシ広告)の画像がありました。「舶来 反物商 梅林堂 京都四条烏丸」とあります。

      • これはすごい! 良く見つけられましたね。京都歴彩館のオリジナル画像で「裏地商」の文字は読めたのですが、他は分かりませんでした。引き札に「紀州子ル』とあるのは、毛織物のネル(フランネル)を真似た、綿ネル(コットンフランネル)のことで、和歌山では明治末ごろから量産されたとか。
        なるほど、よくわかりました。洋服が次第に普及し、服地の反物を専門に扱う店もあったのですね。

        • 四条烏丸というと金融の街のイメージが強いのですが、洋服生地を扱う、流行の先端を行く街でもあったのですね。

    • ⑯は御旅町に間違いありません。この交番の正面にあたる南側に私の店がありました。交番の右の通りが新京極、左隣のたばこ屋が現在の林万昌堂でしょう。
      問題は⑮の正確な場所です。じつは同じ御旅町の十三屋さんが「ウチの古い写真がないやろか?」と探しておられたので、ここに十三屋さんが写っていると知らせてあげようと思い、拡大したら「二十三屋」と書いてあるので御旅町ではなさそうです。さてどこなのでしょう?

      • ⑮の元資料である石井行昌撮影写真資料には「市電(四条寺町)」とあるのですが…?
        足袋の分銅屋さん、櫛の二十三やさんが写っていますが、近年の所在地とは異なるようですので確定できておりません。

      • ⑮はもう少し東へ行った四条河原町です。電車の位置が現在の四条河原町の交差点に相当します。「分銅屋」か「二十三屋」あたりまでが拡幅の影響を受けました。前に調べたメモが見当たらず、うろ覚えですので違っているかもしれませんが、場所は河原町に近い所です。
        米手様のお店は寺町にもあったのですか!東隣は「富美屋」だったでしょうか?

        • そうです。
          隣の二階に「富美屋」さんがありました。地下には同級生が経営する喫茶店もありました。

      • 遅くなりましたが確認が取れました。
        十三屋さんに聞きましたら、二十三屋さんとは別物だと言うことでした。


  5. 堀川丸太町。この区間の丸太町線は、1912年(明治45年)6月11日に烏丸丸太町-千本丸太町 が開業しています。その記念の花電車でしょうか。壬生車庫行の表示があります。堀川通の狭軌線はまだ京電の時代ですね。

  6. ⑮は現在の四条河原町で、高島屋の前から東を向いて撮影されています。電車の右に奉祝アーチが見え、そこには「祝竣工 聯合大賣出し」の文字があります。市電の延伸なら竣工とせず、開通あるいは開業にすると思います。よって、撮影の時期は四条大橋が竣工した、大正2年3月ではないかと考えます。このアーチの位置が拡幅前の河原町通りで、この頃は昔からの狭い道でした。
    河原町通の拡幅後は画面左手の洋館風の建物までが残され、分銅屋と二十三屋はなくなりました。交差点の見通しをよくするため、斜めに削り取られたのです。現在は眼鏡市場が入る、あのビルの位置です。洋館風の建物は、みずほ銀行に変わりました。
    さて、十三屋さんですが、昭和26年の地図には現在と同じ場所に「櫛」を扱うお店が載っています。ただ、この場所が写った写真は残念ながら見つかりません。⑯の交番より東で、⑮との中間と思われますが、石井行昌氏は撮影されてないようです。

    • これでよく解りました。
      四条河原町西入ル地点での撮影ですね。
      まず、河原町通の拡張前で、「分銅屋・二十三屋」が立ち退いて交差点内になった、と言うことは市電廃止前に西行の「四条河原町新京極」停留所があった場所ですね。十三屋さんは少し西に移転されました。問題は二十三屋さんと十三屋さんとの関係です。老舗が移転で店名を替えることがあったのか無かったのか、これは十三屋さんに聞いてみましょう。いずれにしても紫の1863さん、乙訓の老人の甥さん、お二方のご見識が無ければ永遠に分からないことでした。ありがとうございました、と行きたいのですが、まだ解明されていない場所がたくさんあります。続けての調査報道をお願いします。

  7. まだ半分も出来てないのですね。頑張らねば!
    ①は四条大橋の西(東華菜館の位置)から、東を写したものです。四条大橋は完成まであと一息ですが、市電はひと足早く祇園石段下まで開通しました。大正元年12月25日の撮影と思われます。
    ②は祇園石段下で、八坂神社西楼門から西を写しています。東山線の八坂神社前を通る区間も大正元年12月25日に開業しますが、翌年2月「軌道との間隔が狭隘で参詣者その他一般交通の危険の恐れがあるため」道路の拡幅と下水道の整備が計画され、西楼門と石段は東側に後退し、現在の位置になりました。拡幅工事が始まる前、大正2年頃の撮影でしょうか。
    ③は京電の鴨東線、鴨川を渡る橋梁を西側から東を向いて撮影されてます。木屋町から岡崎に向かう路線で、明治28年4月1日に開業しました。二条大橋の手すりが明治30年代の終わり頃に改修されてますので、開業から30年代半ばまでの撮影でしょう。
    ⑤は「開業時の京都駅前で撮影された21号車」として有名な一枚ですが、場所の特定には難儀しました。21号車のブレーキは丸ハンドルで、救助網もありません。開業間もない頃の撮影と思われます。市中電車乗場の札があるので、木屋町を通って岡崎へ行く電車です。ですが、「七条行」とありますので、東洞院通りを南下して京都駅前に着いたところでしょう。後ろの建物に「アサヒビール」の大きな看板があり、これが間違いの元でした。何を血迷ったのか、塩小路通りだと思い込んでしまったのです。実際は東洞院通り塩小路下がるで、京都駅の駅弁を製造していた「萩の家」の前から東を向いて撮影されてます。近くには「電気鉄道事業発祥地」の碑もありますが、伏見線ではなく市内線のスグそばというのも皮肉なものです。後の建物は乗客相手のお茶屋のようですが、軒行燈に「旅館」の文字が見えます。ストリートビューで見ると萩の家にも同じ意匠の軒行燈があって、意識したものなのか興味津々です。

    • ③は石井行昌撮影写真資料に明治後期撮影とあり、同資料のもう1枚の同アングル写真は明治中期とクレジットされています。両者の橋の欄干は異なったデザインです。元資料で見る限り③は橋の欄干の改修後と理解していたのですが…

  8. ③と同アングルで石井行昌撮影写真資料に明治中期とクレジットされている1枚です。

    • 京都歴彩館の資料は、おっしゃる通りですねえ。私は見るからに新しそうな欄干の色(おそらく白木のままだと思いますが)で判断しましたが、他にも違いがありました。2枚を比べると背景の街並みに煙突が建っていること、川端通りに電柱が建っていることから、白っぽい欄干の方が新しいと考えました。
      先走りの少年の存在も年代を決める要素のひとつですが、どちらの画像にも写っています。すると、この2枚はどちらも明治37年以前の撮影でしょうか?

      • 書き忘れていました。救助網の有無です。③の電車には救助網が無く、乙訓の長老の甥様が添付された電車には取り付けられています。
        これは判断の基準になると思いますが…。

  9. ⑥の壱等車には手を焼きました。京都電燈の東九条発電所前という、大きなヒントはあるのですが、電車の向きを見ると疑問を感じます。
    一等車は初め2両が製造され、追って2両が増備されました。大西友三郎氏は鉄道ピクトリアル356号で、明治35年と記されています。番号は「Ⅱ」と表記されてますが「11」ではなく、「2」であることは皆さんご存知のことと思います。モニター部の明かり窓には彫刻ガラスがはめ込んであり、細部にまで凝ったつくりでした。ところが明治37年6月30日に発生した東洞院車庫の火災で2両を失い、12月20日には一等車の運行が廃止され、わずか2年余りの短い運命でした。
    さて、そろそろ本題に入りましょう。場所は竹田街道八条下がる、京阪ホテルの前から北東を向いて撮影されています。明治35年頃でしょう。この時期は高倉の跨線橋ができて、市内線との直通が始まっています。左手奥に伸びる狭い道が、開業時の起点へ伸びているものと思います。画面の左が北で、電車の進行方向は南になります。ところが「七條行」の表示を付けていて矛盾します。京都電燈の発電所は竹田街道の東側にあって、前には愛染川が流れています。伏見に向かう電車に七條行の表示は、どう考えてもヘンです。
    ここから先は私の推測、いや妄想?です。電車は車庫から出てきて、本線に入る手前で停車しています。石井行昌氏のリクエストで、写真撮影に応じたと考えたのです。営業運転であれば伏見方向を向きながら、反対の七條行をかかげているのは考えにくいのです。運転手をはじめ、乗客全員がポーズを取っているのも不自然です。もしや、仕込みの元祖でしょうか?

  10. ⑦は京電堀川線です。電柱の電車乗場は読めるのですが、肝心の停留所名は分かりません。1978年に発行された「さよなら京都市電」に、『堀川下立売にあった京電の電車乗客待合所』との説明があります。堀川に架かる橋の上から、北東を向いて撮影されています。152号にNの文字はありませんが、ポールは2本です。京都市に買収される大正7年7月以前、市電の営業が始まる明治45年以降でしょう。⑨の堀川丸太町で撮影された花電車の写真に、堀川線の複架線が確認できます。
    ⑧は東山線、熊野神社前-岡崎公園前間の疏水にかかる徳成橋の南から、北東方向を撮っています。。橋の竣工は大正2年5月、市電の開通は5月6日です。橋が新しいので、おそらく開業間もない頃でしょう。
    ⑪は烏丸線、東本願寺前です。ここは市電として一番初めに開業した路線のひとつで、明治45年6月11日の開業です。参拝者の安全安心を訴える東本願寺の強い要請で、東へ寄せて線路を敷設したのは有名な話です。現在の烏丸通も開通時と同じように門前を避けています。撮影は大正初期でしょうか。
    ⑫は今出川線、烏丸から少し西へ行ったところです。南側に3階建ての建物があって、烏丸通の方向を向いて俯瞰撮影されています。時期は大正2年から6年の間、遠くには比叡山が見えます。
    ⑬も同じく烏丸今出川西入る。烏丸七條行の5号です。方向幕は何色かわかりませんが、染めてあるようです。大正2年から6年の間の撮影でしょう。
    ⑰も烏丸今出川西入るの電車乗場です。26号の行き先は大宮七條で、そばに立つのはポイントを切り替えていた転轍手でしょうか。まだ烏丸以東は狭いままの道で、大正6年まででしょう。
    ⑱は散水車で「試運転」の札があります。センターポールがあるので四条通のようですが、特定はできません。大正初期の撮影と思います。
    ⑲は烏丸今出川西入るで撮影された散水車2号で、大正2年から6年の間でしょう。「ぜんざい」の提灯と、奥には「和洋菓子」の看板が見えます。今ならカフェとスイーツのお店でしょうか。

  11. ほったらかしでごめんなさい!
    先週は創立記念日(同志社EVE)や個人的な集まりがあった上に、スマホを替えたのでその設定に二日がかりでした。
    これから、遅れを取り戻します。

  12. ③ 鴨川を渡る京電の電車に、救助網は付いていません。救助網は明治30年5月頃までに取り付けられましたので、明治28年4月の開業から2年ほどの間に撮影されたものと思います。

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