湯口さんと過ごした2日間

令和4年12月19日 クローバー会のLINEに「12月11日に湯口徹氏ご逝去」という衝撃的なニュースが飛び込んできて、茫然としました。以来2週間ほどが経ちましたが、その喪失感から立ち直れずにおります。改めて心よりご冥福をお祈り致します。多くの皆様が回顧されているように、私にとって湯口氏は雲の上の存在と言うべき先輩でしたが、平成27(2015)年6月に氏の「鞆鉄道」取材のお手伝いをすることになり、1泊2日の短い時間ではありましたが、氏と行動を共にする機会を得ました。今にして思えば、夢のような2日間でした。この貴重な体験を皆様にも共有して頂くことによって、氏への感謝に代えたいと思います。

2015年12月1日 ネコ・パブリッシング発行 RMライブラリ196 鞆鉄道 表紙

湯口氏はかつてRMライブラリに5回投稿され、氏ならではの密度の濃い珠玉の記録を残されています。即ち、「戦後生まれの私鉄機械式気動車(上、下)」、「日本の蒸気動車(上、下)」、「石油発動機関車」、『「へっつい」の系譜』、「花巻電鉄(上、中、下)」の計9冊です。「日本の蒸気動車」は鉄道友の会 島秀雄記念優秀著作賞を受賞されるなど、RMライブラリに限らず氏の著書はどれをとっても かけがえのない貴重な1冊です。残念ながら、RMライブラリでは6作目の「鞆鉄道」が最後となってしまいました。

では、この「鞆鉄道」の出版に至る経緯や取材旅の様子をご紹介してゆきましょう。私が平成26年6月に道東を旅し、釧路で出会った方から湯口氏への言づてを頼まれたことが発端で、湯口氏に手紙を出し、メールでのやりとりが始まりました。この時期は丁度「花巻電鉄」3巻の発行を終えられた頃で、次は「鞆鉄道」を1~2年かけてまとめようと思っているとのことでした。6月26日の氏からのメールでは、飲み会の席ではあったが、ネコパブ編集人である名取氏に「いずれ鞆鉄道を」とプロポーズし、「もっと売れるものを」と言わんばかりの顔で渋々OKをもらったとあり、77.8歳の後期高齢者として「水薬」の効用も併用しながら、ボケ防止も兼ねてじっくり取り組みたいと心境を述べられていました。

鞆鉄道は昭和29年3月に廃線となっていますが、現在も「トモテツバス」として備後沿岸部の公共交通を担っており、私の住む三原市にも路線を有しています。そんな訳でトモテツは身近な存在であり、氏が鞆鉄道を調べて出版されようとしているなら何かお手伝いが出来るのではないかと思い、自分なりに情報収集や廃線跡巡りを始めました。新たに入手した情報は都度氏にお送りし、メールでのやり取りを続けておりました。とは言え、私には湯口氏のような調査能力はありませんので、広島県立図書館、県文書館をはじめ、福山市内の図書館、公民館、歴史博物館などを訪ねて関係資料を探すだけでした。このような情報集めの中で、後日大いに役立ったのが地元新聞の記事でした。当地の地元新聞は中国新聞ですが、その備後版(当時は備南版)に鞆鉄道に関する記事や広告が多く掲載されています。ところが、中国新聞本社は原爆で、福山支社も福山大空襲で戦前の紙面は残っていないのですが、戦災を受けなかった三原市図書館には昭和5年から昭和21年までの備南版が保管されており、更に有難いことにすべて電子化されていて、図書館に出向けば事務室のパソコンで閲覧し、プリントアウトもできるということで、図書館に日参して鞆鉄情報を集めました。その一例を示します。(なおここに言う三原市図書館は旧図書館で、現在の図書館ではありません)

昭和14年11月11日 中国新聞備南版より

図書館事務室パソコンでの電子データ閲覧は、1人の人に占有されないように1回2時間までという決まりがあるので、日参することになりましたが、見始めると鞆鉄以外の鉄道関連記事にも目が行き、2時間で閲覧できるのはせいぜい3~4ケ月分でした。昭和5年11月分から読み進めてゆきました。上記の記事の例にもあるように、すでに昭和14年時点でガソリンの統制による減便が報じられていますが、昭和15年に入ると紙面は更に戦時色が濃くなり、国力や国民生活の状況を報じる記事は掲載されなくなり、戦果を華々しく報じたり、国威発揚を図るような記事が目立ち、終戦直後は新聞発行もままならないようで、鞆鉄関連記事は殆ど見つかりませんでした。

7月25日のメールでは、鉄道友の会会報「RAILFAN」に「私鉄のボギー客車」を連載することになり、鞆鉄道はあと回しにして、横荘、越後、飯山、長岡、北総、富士身延、佐久、新宮、簸上、大湯といった中小鉄道の客車を調べるべく大宮鉄博を訪ねたり、キーボードを叩き続けていると、お元気そうな様子が伺えました。

この年の10月下旬 どですかでん氏が四国からしまなみ海道経由で三原方面に来られることになり、彼と鞆鉄廃線跡探訪を行い、鞆で1泊したあと府中方面や尾道鉄道跡探索をしています。この小旅行が、後日湯口氏を案内した際の伏線となって役立ちました。またどですかでん氏からも鞆鉄道に関する情報提供を頂くきっかけにもなりました。

さて 年が改まり、平成27年3月初旬に、湯口氏より未定稿が届きました。A4判24ページの原稿は本文と付表のみで、挿入される写真はタイトルのみでしたが、これを拝読しながら来るべき現地調査のプランを考えることにしました。

そしてついに平成27年6月23日(火)9:35 湯口氏が福山駅に降り立たれました。2日間の現地取材のスタートです。

1.広島県立歴史博物館訪問

福山駅のすぐ北側に県立歴博があります。この歴博には三原在住の故細川延夫氏が永年にわたって地元で撮影された鉄道写真がご遺族から寄贈されており、その中から鞆鉄道の貴重な写真を複写させてもらうのが目的でした。予め学芸員にお願いしてありましたので、挨拶もそこそこに目的の写真を複写させて頂きました。そこで初めて目にしたのが、湯口氏が手作りされた携帯用組立式の複写用スタンド(?)でした。机の天板にクランプでき、コンパクトデジカメを自由に上下でき、記録したい対象物を真上からスローシャッターで撮影できる優れものでした。この手作りスタンドを持ち歩かれて、国立国会図書館をはじめ いろいろな場所で素早く多くの文書類を撮影されてきたのだろうと、感心して撮影作業を眺めておりました。その時の1枚がこれです。細川氏のアルバムにある昭和28年撮影のもので、芦田川鉄橋を渡る列車です。芦田川を渡る写真は、廃止直前やお別れ列車の記録写真は多いのですが、何気ない日常風景の記録が少ないことから、湯口氏はいたく気に入られたようでした。

故細川延夫氏のアルバムから

結局、この3枚のうち上のキハ5+ボハ10+ボトの写真を本に採用されました。

2.三ノ丸駅跡探し

鞆鉄道が国鉄福山駅に乗り入れたのは開業から16年後の昭和4年8月で、それまでは三ノ丸駅が起点になっていました。現在のJR福山駅はかつての福山城の城内にあり、鞆鉄の三ノ丸駅もその名の通り、福山城内三ノ丸にありました。今では高層ビル群が立ち並ぶ一角ですので、鞆鉄現役時代を偲ばせるものは何も残っていませんが、一応駅跡付近を一巡してみました。すると小さな三ノ丸公園の中に「外堀橋」と彫られた昭和2年に建てられた小さな石碑があり、この辺りには城の外堀やそこに架かる橋があり、埋め立てられたエリアであることが確認できました。

三ノ丸町外堀橋跡の石碑

3.福山市立中央図書館訪問

昼食後、私のクルマで図書館に移動しました。ここでは福山市内の古い地図類を閲覧し、必要なものを複写しました。

4.水呑公民館と図書館水呑分館訪問

クルマで福山と鞆の中間地点である水呑町に向かい、公民館兼図書館分館を訪ねました。ここでは水呑町誌や地元の水呑歴史民俗資料保存会が発行されてた資料などを調べました。水呑公民館の玄関には数枚の写真が飾られていました。

葛城駅  RMライブラリの表紙を飾っているキハ5が撮影された駅

5.三分坂、賽の峠(さおのたお)から高島公民館訪問

水呑町から南下して田尻町に向かう街道途中に低い丘陵を越える坂道が2ヶ所あります。福山寄りが三分坂、鞆寄りが賽の峠と呼ばれ、今クルマで通るとあっという間に通過してしまう低い峠です。鞆鉄道の線路は三分坂を避けて遠回りし、賽の峠は短距離ながら22.7‰の急勾配で越えていました。地元で発行された郷土史などには、非力な機関車が勾配を登れず、乗客が降りて後押しをしたという やや誇張を込めた話が載っています。ところで、鞆鉄道で使用されていた連結器は、国内のどの鉄道にもない珍奇な連結器(湯口氏は連結器と呼ばず、敢えて”連結具”と表現されている)で、ボルト・ナットを締めたり、緩めたりして着脱するものでした。昭和21年には、このボルト・ナットの締め付けがゆるかったのか、賽の峠の頂上付近で福山に向かっていた列車のボルト・ナットが脱落し、客車1両が鞆方向に勾配を逆走するという事故がありました。幸い大事故にはならず、笑い話扱いされていますが、そんなエピソードが残る区間です。そんな話をしながら、田尻町にある高島公民館を訪ねました。田尻町には「田尻民俗資料館」があり、普段は開いていないのですが、翌日、館内を見学したいので 管理されている高島公民館に見学を申し込むため立ち寄りました。

6.投宿と鞆街歩き

予定よりかなり早く鞆に着きましたが、まずは旅館にチェックインし、クルマや荷物を置いてから軽装で鞆の街歩きをすることにしました。投宿したのは「景勝館漣亭」です。

鞆の浦 景勝館(左)  Googleストリートビューより引用

鞆鉄道の鞆駅は、鞆の町並みの北端にあって、現在は「ともてつバスセンター」となっており、お土産品などの売店の奥に「鞆鉄道資料館」があり、鞆鉄道関係の物品が展示されています。

ともてつバスセンター

バスセンター内の鞆鉄道資料館

資料館内に展示されている写真、株券、時刻表、切符などをゆっくり見学し、珍しいものは写真撮影するなどして過ごしました。夕刻になり 宿に帰って部屋でひと休みし、展望浴場で汗を流し、部屋で湯口氏との夕食です。当夜の献立が残っていました。

湯口氏と味わった当夜の献立

鞆の浦と言えば鯛網が観光の目玉です。献立を見ると鯛のしゃぶしゃぶや鯛茶漬けがあったようです。ビールやお酒も注文しましたが、なにせ湯口氏とさしつさされつの夕食で、何を食べたのか、何の話をしたのかなどさっぱり記憶がありません。「水薬」の大好きな氏ではありますが、控えておられたのか それほど杯を重ねられず、夜が更けてゆきました。とにかく氏と過ごしていることに興奮していたように思います。早めに枕を並べて就寝しました。

7.田尻民俗資料館訪問

翌朝、アポイントを取ってあった田尻民俗資料館にまず向かいました。高島公民館の方に鍵を開けて頂いて、館内を見て回りました。

田尻民俗資料館

館内に展示されていた鞆鉄お別れ列車の写真

8.橋台跡探訪

民俗資料館をあとに、水呑町に残る橋台跡2ヶ所を見に行きました。1ヶ所は両岸に石積みの橋台がしっかりと残っていますが、橋桁は新規に架けられたようで、個人住宅専用の橋になっているようでした。もう1ヶ所は石積みの高い橋台が片側だけ残っていました。実は2日間、湯口氏と行動を共にしたのですが、氏の姿を写したコマがこの1コマしかありません。それもうしろ姿です。

両岸に石積み橋台が残る

片手にコンデジを持って橋台を見に行かれる湯口氏のうしろ姿

これで予定していた見学先をすべて見て回りましたので、一旦福山駅方面に戻ることにしました。残された訪問先は鞆鉄道本社事務所です。

9.鞆鉄道本社訪問

約束の時間まで少しあるので途中で喫茶店に入って時間調整し、佐波町にある鞆鉄道本社に向かいました。ここは湯口氏がアポイントを取られていたので、常務取締役が丁重に出迎えて頂きました。予めお願いしてあった数々の貴重な資料や写真を見せて頂くことができました。鞆鉄道は同族経営の会社のためか、鉄道事業から撤退して60年を経ているにも関わらず、創業当時からの資料がしっかりと保存・管理されており、湯口氏も感激のご様子でした。複写するために いくつかの資料を借りられたと思います。

こうして、最後に貴重な情報を入手でき、満足されたご様子で福山駅に向かい、2人で昼食をとったあと、新幹線で須磨に戻られました。そして2日間(実質は1日ですが)のご案内を無事終了しました。

10.後日談

現地調査から約5ケ月後の平成27年11月下旬に、出来上がったRMライブラリ196「鞆鉄道」が送られてきました。私があちこちで集めた資料や写真などを数多く採用して頂いており、巻末には身に余る謝辞まで述べて頂き、感激しました。この1冊は私にとって、最高の宝物となりました。

ところで、クルマの中や鞆の旅館での話の中で、鞆鉄道の次はどうされる予定ですかというようなやり取りをしていました。氏は、この次は電機が客車を牽く「両備軽便鉄道」を考えているが、「両備」だけでは1冊分になりにくいので、電気動力のいくつかの軽便鉄道を集約したものを考えているとの構想をお持ちでした。両備軽便、即ち現在の福塩線であれば、今回の鞆鉄道と同様にしっかりとお手伝いできそうだと感じ、以来、福山・府中間に点在する図書館、公民館、博物館などを順次訪問しながら、鞆での経験を活かしながら、資料収集や写真撮影を少しずつ続けてきました。そして、少し情報量がまとまった段階で氏にお送りしていました。目標があると、このような調査には弾みがつくものです。ところが、氏が体調を崩されたとの情報が流れ、どのようなご様子なのかもわからないまま、1日も早いご回復をと願う日々が続きました。令和4年6月のクローバー会映写会で何か発表してもらえないかと依頼があり、「両備軽便鉄道を探る」と題して、それまでに集めた情報を整理して報告させて頂きました。氏が回復され、メールのやり取りの再開を期待していました。ところが、年末になって思いもよらぬ悲報を受けることになりました。もう湯口先輩のお手伝いが出来ないと思うと残念でなりません。

あの夢のような鞆の浦での光景を思い出しつつ、感謝と哀悼の誠を捧げます。合掌

 

湯口さんと過ごした2日間」への14件のフィードバック

  1. 西村雅幸様
     貴兄の真摯な思いがひしひしと伝わってきました。
     湯口大先輩は貴兄のサポートにすごく感謝されておられたことは間違いないことだと思います。感激しました。後は何を書いたら良いのか・・
     西村さんの益々のご活躍をお祈りいたします。
     
     

    • マルーン様 明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願い致します。さっそくのコメントありがとうございます。DRFCやクローバー会の存在が何にも代えがたいものであることをつくづく感じます。昔を懐かしむだけでは「生産性」が無いことはわかっていながら、あの楽しかった時代の思い出にふけるような歳になってしまいました。そんな中で、大先輩諸氏の悲報はつらいものがあります。今年1年、クローバー会の行事にできるだけ参加し、懐かしい顔ぶれにお会いすることを楽しみにしています。

  2. いゃ、私も感激しながら読みました。湯口さんをご案内されたことは以前から聞いていましたが、これほどまでに綿密な調査、段取りをされていたのですね。西村さんにしかできない対応だと思います。湯口さんの筆も進んだことと思います。
    2011年、浜大津で開催された江若鉄道復元模型運転会にも、湯口さんは来られました。写真は、江若の模型を前に楽しそうに話されていたお二人です。

    • 総本家青信号特派員殿 こんなカットを撮られていたのですね。江若イベントには必ず顔を出して頂いたように思います。うれしいカットをありがとうございます。大切に保存したいと思います。

  3. 続いて同じ日の晩に打ち上げがありましたね。東京から雑誌編集者もお越しになり、にぎやかでした。いまは天国に召されたお二人も、楽しそうにされていました。湯口さんが指を折っているのは「クローバー会会員が幸せ者である三ヵ条」を読み上げておられるところだと思います。

    • 特派員殿 「三カ条」が何だったか覚えていないのですが、教えて頂けますか?

      • 西村様
        本欄の2022年12月22日「湯口さんのご活動をしのぶ」の写真キャプションに記しています。なるほどといつも納得しています。湯口さんの話は、いつも含蓄があって、聞き入っていました。

        • 特派員殿 失礼しました。このキャプションの3項目は私も読んで納得、賛同していました。4項目を加えるなら、健康と体力維持かもしれません。

  4. 西村君が湯口さんの原稿作成に携わっておられたのは聞いていました。思い入れは私ごときではなかったろうと思います。西村君の誠実な思いが伝わってくる投稿を読ませていただきました。湯口さんも西村君のバックアップに感謝されていたと思います。ありがとうございました。私も偉大な先輩を持てたことを誇りに思っております。

    • ぶんしゅう様 コメントありがとうございます。本年もよろしくお願いします。北海道旅行記楽しく拝見しました。三次方面にお越しの節はご一報下さい。但し私のクルマにはスタッドレスタイヤやチェーンを装備していませんので、積雪期は動きがとれません。

  5. 動いていると思って行った廃止されていた花巻電鉄のことを湯口さんに話をしたら、私もそんなことがあったと話していただきました。それが「鞆鉄道」でした。鞆鉄道のことをまとめられたRMライブラリ196「鞆鉄道」の「あとがき」にその時のことが書かれています。鞆鉄道のことは「自転車に抜かれたコッペルたち」という本を見て興味がありました。特に写真をよく見ると連結するところに両端に穴の空いた小判型のものがぶら下がっていて、どうして連結していたのか不思議に思っていました。大津歴博でお会いしたとき、鞆鉄道のことを調べていてまとめようとしているところや、ということで連結についてお聞きしたら、調べている最中でした。その後、まとめられた本にはボルト、ナットだけで連結されたことについては「・・、なぜこんな代物を採用し、40年以上後生大事に使え続けたのかは理解を超えている。」と書かれています。湯口さんの本は多くの図面が掲載されています。車両の竣工図のようなものもありますが、動力伝達方法やボイラーの形状や台車やらの図面が多くあり、機械工学を勉強したものにとってはうれしい限りです。
    私のような若造に質問したらきっちりと答えていただきました。時間的にはわずかだったですが、そのわずかの期間でも湯口さんからは多くのものを受け取りました。これからじっくりと湯口さんの著作品を読んで少しでも近づけたらと思っています。
    写真は「ヘッツイの系譜」にあった鞆鉄道のヘッツイの図面(この機関車は湯口さんによると隼ヘッツイらしいです。)から製作した模型と廃線跡を通る鞆鉄道の列車です。

  6. バスはいつ買ったかわからない鞆鉄バスのミニカーです。実物も西村さんと訪れた時に撮影しました。

    • どですかでん様 コメントありがとうございます。貴君とは鞆に行ったり、上下の街歩きを楽しんだりと楽しい思い出がたくさんあります。鞆のバスはこれですね。今も健在なのでしょうか?

      • 上下の洋酒ケーキはおいしかったので、また行ったら買って来てといわれているのですが、そんな簡単に行けませんね。行こうと思えば行けるのですが・・・昨年のこころ旅で広島県を訪れていました。場所は吉舎とその次は尾道でした。場所は西村さんと訪れた場所そのままズバリです。また尾道も駅前の商店街でこれもそのままズバリです。昨年から投稿の準備していたのですが、なかなかです。そのうち投稿するでしょう。

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