「信号場」を巡る  ⑦

羽越本線の信号場のこと記していますが、「岡山好き」さんが、本欄で、「日本海の絶景」として現在の羽越本線を記しています。記事を見ますと、羽越本線を走っているのは、GV-E100形とかH100形とか、形式名にカタカナの付かない気動車ばかり、最後に「羽越本線でE129や115系を見てみたかった」と結んでいます。なるほど、蒸機や旧型客車なら、若いファンにとっては、もう有史以前の石器時代の出来事に映るのでしょう。でも、現代と石器時代が仲良く同居するのも「デジ青」の魅力なのです。羽越本線の女鹿信号場で交換するC57 181の牽く下り列車、羽越本線は、全線でC57の活躍が見られた(昭和46年9月

羽越本線の信号場 ②

女鹿(めが)信号場

女鹿信号場は羽越本線小砂川~吹浦8.7kmにあった信号場で、秋田、山形の県境にも近い位置にある。昭和36年に開設され、当初から旅客扱いを行っていたが、時刻表には記載がなかった。周囲は山に囲まれ、県境にも近いため秘境感の漂う信号場だった。国鉄分割民営化と同時に、JR東日本の女鹿駅に昇格し、時刻表に掲載されるようになったが、その後も信号場としての機能がメインで、日本海縦貫線らしく長い貨物列車とも交換できる広い構内だった。ホームは仮設のような短いもので、上下線にそれぞれあった。2016年に今の駅舎に改築され、雰囲気は変わったが、時刻表を見ると、朝夕は停車するものの、日中の列車はすべて通過扱いだった。

小砂川で撮影を終えて酒田まで821レに乗車、つぎの女鹿(信)でC57 181[新]の牽く821レと交換した。乗降用のホームが見え、駅員の姿も見えるが、列車は交換のための運転停車で、客車列車は客扱いは行っていなかったと思われる(昭和46年9月)。

今川(いまがわ)信号場

名勝「笹川流れ」の中心にあり、私も撮影で何度か下車した。信号場ながら、「臨時駅」の扱いで、蒸機の牽く列車もちゃんと停車して客扱いを行っていた。上り列車から下車した客が、C5719の牽く列車の発車を待っている。ランドセル姿の児童も見え、日常的に通学利用があったこともわかる(昭和46年9月)。

昭和19年に、戦時中の輸送力増強のため、越後寒川~桑川9.2kmに開設された。周辺集落の児童にとって通学に必要不可欠だったことから、昭和24年に仮乗降場として旅客を取り扱い、国鉄の時代には「臨時駅」として、時刻表にも記載されていた点、ほかの信号場とは大きく異なる。昭和25年には下りホームの待合所が竣工していることからこの時期から旅客利用があったことが伺え、のちに上りホームにも、本格的な信号扱い場が設けられた。昭和62年の国鉄分割民営化と同時に正式な駅に昇格した。今川駅は日本海のすぐそば、奇岩が続く景勝地の笹川流れがあり、周辺には多くの民宿があったことから「民宿発祥の地」の記念碑も建てられている。今川の下りホームに到着するC57166の牽く839レ、左手の駅名標、右手の待合室と立派な駅の佇まい、浮き輪を模した「水」の表示は、夏は海水浴で賑わう駅らしい(昭和44年8月)。

 「信号場」を巡る  ⑦」への4件のフィードバック

  1. 総本家青信号特派員様
    紹介いただきありがとうございます。
    今川駅はもともと信号場だったのですね。言われてみれば、昨年通った際もこぢんまりした駅だという印象を抱きました。その時も駅周辺の海水浴場は賑わっておりました。
    一つ前の投稿にもつながりますが、桂根、折渡、女鹿も信号場だったのですね。私が秋田から乗車した列車は、これらの3駅は通過でした。

    • 岡山好きの元京都人さま
      羽越本線、過去と現在の同時進行、私も楽しんでいます。今川は、〝笹川流れ〟の中央に位置する駅で、昔は蒸機の撮影でよく訪れたもので、地元の利用もある程度あったようです。対して、桂根、折渡、女鹿の3駅は、高校生の通学需要のみのようで、日中は通過扱いが多いこと、私も時刻表で確認しました。

  2. 風の便りで御忙しいと聞いておりました。9月は一本の投稿もありませんでしたので、寂しい思いで日々を過ごしていました。
    羽越本線のC57、やっぱりいいですねえ。特に今川のC57 19が堪りません! ランドセルを背負った小学生の奥に、傘を差した人も何人か見えます。小雨が降っていたのでしょうか。その時の天気までが読み取れて、実に興味深い一枚です。
    C57の旅客列車は、どこからどこまで走ってたのでしょう。ワタクシ、時空を超えるストーカーです。手持ちの時刻表で調べてみました。昭和46年9月の821列車は直江津を6時27分に出発し、終着駅の秋田に着くのが18時55分です。392.8キロの長距離を12時間余りかけて走破していました。女鹿(信)の前後の吹浦-小砂川間8.7キロは20分を要しているのに比べ、他の列車は12分で通過しています。この理由は列車交換のための停車だったのですね。
    昭和44年8月の839列車は新津を13時2分に出発し、終着駅の秋田到着が20時8分です。271.7キロを7時間余りで走破しています。どちらも現在では考えられない長距離を走る列車で、時代の変化を感じます。もっともこの頃は上野発の奥羽本線経由、青森行き各駅停車という恐ろしい列車もあったほどで、走行距離は756.6キロ、所要時間は23時間16分でした。
    ちなみにネットで京都から秋田へ行くのを調べると、東京を経由する新幹線のルートが表示されました。日本海沿いを辿るルートは第三セクターを含む多くの会社を乗り継がねばならず、現実的ではないようです。移りゆく車窓を楽しみながら、のんびりと客車に揺られる旅など、昔話になってしまいました。

    • 紫の1863様
      はい、忙しかったのですよ。どうしても締め切りのある業務を優先せざるを得ず、ノルマのないデジ青は、後回しになりました。M高OBの皆さんからも暖かい労りの言葉を掛けてもらいましたよ。さて今川駅の写真もお褒めいただき、ありがとうございます。雰囲気いいでしょ。これだけの小学生が通っていたとは驚きです。信号所への階段の途中、出迎えに来た母親と手をつないだ小学生も見えます(マウスを写真に置くと、拡大できます)。羽越本線のC57、新津から秋田まで、全区間をC57が単機で牽いていましたね。その距離、約270キロ、あの宗谷本線旭川~稚内も約260キロですから、これぐらいがC57の限界だったのでしょう。

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