荷坂峠

先日のホームカミングデイで、私は四国出身者と思われていることが判明した。無理もない。これまでに投稿した12本中8本の記事が四国関連であった。四国ネタは、77タツ先輩ぐらいしか投稿されないので、被る心配が小さかったこともある。

そこで今回は誤解をとくため、四国ネタ以外で勝負してみたいと思う。

▼DF50重連貨物列車、1977/08

ホームカミングデイでも少し話題となった「峠」。パッと思いつくのは、「狩勝」、「板谷」、「碓氷」だろうか。不思議と西日本では峠の名称を線路の区間に代用している例を知らない。そもそも峠の名称は人道に付されたもので、碓氷峠を除けば起終点がほぼ同じであってもそのルートは大きく異なり、代用することに無理があるような気がする。

【荷坂峠】

三重県北牟婁郡紀北町と同県度会郡大紀町を結ぶ荷坂峠は、熊野古道にある峠である。熊野灘に面した漁港の町(旧紀伊長島町)から紀伊半島の山間へ、正攻法で直線的に一気に駆け上がるルートであり、鉄道線で言えば、紀勢本線梅ケ谷(1965(昭和40)年2月27日信号場として開設以前であれば大内山)~紀伊長島間にあたる区間(1930(昭和5)年開業)である。約50年前に「鉄道ファン」誌でも紹介されていたので、ご存知の方も多いことかと思う。この紀勢東線にあたる区間は、1959(昭和34)年にDF50けん引を前提とした三木里~新鹿間の開業により全通したことから、以後SLが走ることもなかったので、当会諸先輩方々もノーマークだったのではないだろうか。

この梅ケ谷~紀伊長島間(8.9km)は、紀伊長島駅から標高約190mの梅ケ谷駅までを、荷坂峠の東側の山腹を25‰勾配(約6km)と13箇所のトンネル(総延長約4.9km)で結んでいる。車道(国道42号及び紀勢自動車道)も荷坂峠のルートをなぞらえることは不可能で、西側の山腹を走っている。この位置関係は根曳峠(土讃本線繁藤~土佐山田間、国道32号、高知自動車道)とも似ている。また、ともにDF50がオーバーヒートに悩まされた区間でもあり、担当工場の浜松、多度津両工場でそれぞれ独自のラジエータ散水装置取付の改造施工がなされている点が、個人的には興味深い。

▼紀勢本線梅ケ谷~紀伊長島間路線図(国土地理院地図に加筆して作成)

【No.20 岩本山トンネル】

紀伊長島駅を出た上り列車は左方へ向かうと思いきや、12.5‰の上り勾配で右方へ向かう。いきなり、「おいおい、どこ行くねん!?」状態なのだが、まともに左方へ向かい二郷トンネルの紀伊長島方の坑口あたりまで、高架橋でほぼ直線で結べば距離は短縮できるものの約50‰ぐらいの上り勾配となり、あらゆる面で非現実的な話となる。ここは素直に、岩本山トンネルで一旦谷の東側のさらに反対側の山腹を走ることとなる。下の写真は、旧紀伊長島町の街並みをあとに岩本山トンネルを飛び出した貨物列車である。

▼1192レ(DF50 53)、1979/04/03

【No.20 岩本山トンネル~No.19 峰山トンネル】

私がこの区間を最初に訪れたのは、1977年8月のことであった。まだ「南紀」を名乗っていた924レ(もちろんハネではなくハ)で天王寺を出て、和歌山まではEF58のけん引力を堪能し、和歌山からは約1年ぶりにDF50のけん引する客車に身を委ねた。初対面の亀山区のDF50は36号で、スノープロウがなく操車用手摺も小型で見慣れていた米子区のDF50との違いに違和感を感じざるを得なかった。924レを新宮で降り王子ケ浜で撮影後はあまり記憶がなく、その夜は紀伊長島駅のベンチで1泊した。翌朝3時40分頃、905Dを降りた釣り客の歓声で目が覚めた。どの世界の好事家も、あまり時間は関係ないようだ、と思わず苦笑したが、お蔭で寝過ごすことなく名倉川橋梁へ向かうことでき、4003レから撮影できた。

名倉川橋梁へ向かう(県)城ノ浜山居線は海辺にあり、道路上は一面自動車に轢かれた小さなカニの死骸だらけであまり気持ちのよいものではなかった。山の中での撮影ということもあり、途中の自動販売機で缶飲料を3本購入した。うち1本は、まだ近畿地方では販売されていなかった「ファンタ」のレモンで、グレープやオレンジとは異なるさわやかな味わいに感動した。缶飲料は購入直後は冷たいものの、時間がたてばヌルくなり役にたたないことを学んだのもこの時である。この時の写真はネガカラーで変色ひどく、キズもかなりはいっているので、冒頭の写真のみとさせていただく。下の写真は、12.5‰から22.2‰に変わる96.7km付近のS字カーブ区間を行く列車である。

▼(左)903D、1979/03/26                                 (右)924レ、1979/05/06

▼1194レ(DF50 54+?)、1979/03/26

下の写真が名倉川橋梁です。冒頭の写真もそうですが、いろいろなアングルを楽しめる橋梁でした。下り列車のサイドからの写真は、上の写真の撮影地点で振り向いたような位置関係にあります。名倉川橋梁上の上り列車は、国道260号から撮影しました。下り列車は、橋梁の紀伊長島方の橋台部分の尾根を上がって撮影しましたが、上りのDF50けん引列車が近づいてくるときに「ポンポンポンポン」と焼玉エンジンのような音が聞こえ、最初は漁船の音かと思いましたが、DF50が姿を現したときには驚いたものです。下り列車の後方に写る峰山トンネルの紀伊長島方坑口は、2020年5月5日投稿のブギウギさんの「924レ はやたま号」記事中でも、写真が紹介されています。

▼1195レ、1979/04/03

▼(左)3D、1979/03/26                                     (右)125レ、1979/03/26

▼(左)4D、1979/03/28                                    (右)122レ、1979/03/28

【No.19 峰山トンネル~No.18 大名倉トンネル】

峰山トンネルの坑口では上り列車は南東に向いており、ますます「どこ行くつもり?」状態なのですが、このトンネルからは左へ回りはじめ、Ωカーブを描いて北西へと進路を変えます。下の写真は、このΩカーブのほぼ始まりの地点にあたります。

▼(左)3D、1979/04/03                                     (右)125レ、1979/04/03

【No.16 楠平トンネル~No.17 立羽トンネル】

名倉川橋梁の下り列車の撮影地点の尾根をさらに登ると、当該区間を走行する列車を撮影することが可能です。名倉川橋梁上の下り列車ももちろん撮影できますが、列車はかなり小さくなります。下の写真は下り列車ですが、上りの優等気動車列車はここをエンジン最大回転数の変速運転で、轟音を山々に轟かせながらゆっくりと40km/hぐらいの速度で登って行きます。

▼1D、1979/03/28

【No.8 荷坂トンネル~No.9 片上トンネル】

国道42号の小糸やんげ橋の西側あたりから撮影した写真が、下の写真である。DF50の次位は新宮~熊野地間の貨物列車を担当する亀山区のDD13である。一つ目なので22号だろうか。

3年ほど前に18きっぷが余ったので、この地点と思しきところを再訪したおり、「鉄道防備林」なる標識がありました。防風林や防雪林は知っていますが、「鉄道防備林」という言葉は初耳です。当時、このような標識には気づきませんでしたので、民営化された際に譲渡された財産目録を確認のうえ、JR東海さんが建てられたのではないかと勝手に解釈しています(ボケたとは認めたくないので)。

▼(左)「鉄道防備林」標識、2022/04/09                  (右)1192レ、1979/05/06

【No.9 片上トンネル~No.10 小山トンネル】

熊野古道からの最近の1枚です。(▼3005D、2022/04/09)

【紀伊長島→梅ケ谷間の所要時間】

紀伊長島から梅ケ谷までの凡その所要時間を、わかる範囲でまとめてみた。条件等は一部、私の推測が含まれている。この区間だけに限れば、DF50のけん引する客車列車の方が普通気動車列車よりも早く、DD51への形式改善で、優等気動車列車までが客車列車に追い上げられているという珍しい状況が見て取れる。

▼紀伊長島→梅ケ谷間の凡その所要時間

※本稿におけるトンネル番号は現時点でのものであり、私の撮影当時のトンネル番号は多気駅からの連番となっていたため-1する必要がある。

※「荷坂」は「にざ(ZA)か」と読むようだ(私は、ずっと「にさ(SA)か」と勘違いしていた)。      ▼国道42号の荷坂トンネル(東側坑口)

 

荷坂峠」への3件のフィードバック

  1. 四方様のことは「DF50の鬼」と承知してましたが四国にも詳しく、とても私のような凡人とはレベルがけた外れに違うと思っています。
    紀勢本線の全通が昭和30年代に入ってからとは驚きで、我が身の無知さ加減にあきれています。荷坂峠、やはり通い詰められましたか。いずれの撮影場所も駅から遠く、その情熱にはただただ感心するばかりです。
    ワタクシ、20世紀の終わりころに一度だけ荷坂峠へ行きました。加太で終焉間近の急行「かすが」を撮った後、なにを思ったか紀伊長島を目指してクルマを走らせました。そのころの雑誌に撮影地ガイドが載っていたのでしょうね。名倉川橋梁には先客がいて「ここが定番の撮影地です」と教わりました。橋梁の下には車が置いてあって、車中泊をしながら写しているとのこと。恐ろしい人がいるものだと感心した覚えがあります。その後、海が見える場所へ移動し、大俯瞰で撮影しましたが列車がどこに写っているのかわからず、難しさを思い知りました。もう今ではどこで撮ったのかもわかりませんが、国道260号線から側道に入ったような記憶があります。峰山トンネルと大名倉トンネルの間でしょうか、オメガカーブの区間のように思います。1999年11月21日、ちょうど今頃の季節に写してました。

    • 紫の1863様、
      コメント、ありがとうございます。
      撮影地点は、お書きの通りで間違いないと思います。
      ちょうど私の写真の逆アングルですね。よくぞ、見つけられたものだと、感服いたしました。私もこのあたりまでは国道260号を歩いて探したのですが、二色トンネルが見えて、「もうこれ以上はないな」と諦めたような記憶がボンヤリとあります。山へ入って行く道があったかどうかまでは記憶にありませんが、北へ分岐して行くので無視したのかもしれません。
      それにしても加太から紀伊長島まで、まだ高速がほとんどなかった時代、紫の1863様の行動力も「恐るべし」です。

  2. 四方様
    この場所が良く見つかりましたね。紀伊長島駅からは距離があるうえに上り勾配の連続で、しかも徒歩で行かれたとはホントに尊敬します。いずれの撮影場所も簡単に行けるところではなく、情報も少なかったと思います。私は「レイルマガジン」に載っていた詳細なガイドを頼りにクルマを走らせただけですので、四方様らの先人のおかげです。
    国道260号線の左に見える道を、5~600メートルほど歩いたでしょうか。雑誌で見たのと同じ場所に立てましたが、午前中なら順光線で撮れたのにと残念がったものです。
    添付の画像は、まさにこの場所です。もう来ることはないかもしれないと思い、クルマの記念写真を撮りました。こんな形で日の目を見るとは思いませんでした。

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