“八重の桜”ゆかりの地を訪ねる 〈1〉

準特急さんからバトンを受けて、“八重の桜”京都編に入ります。大河ドラマ“八重の桜”も京都編が始まり、同志社人として、京都人として、目が離せません。

いまも関連する史跡が残っているのが、京都らしいところです。と言っても、単なる史跡訪問では、デジ青のテーマから外れてしまいます。

そこで、関連史跡が、かつての京都市電沿いにあることに着目し、無理やり京都市電とこじつけて、“八重の桜”ゆかりの史跡めぐりとしました。

女紅場跡

準特急さんも書かれているが、八重が京都で初めて仕事をしたのが「女紅場」だ。

その跡地は、現住所で言うと、京都市上京区河原町丸太町東入る駒之町にあり、この駒之町は、まさに私の生まれ育った町であり、小さい時から、それを示した石碑は日常風景の中にあった。

img_987044_30650573_3会津戦争を生き抜いた山本八重は、明治4年、兄・山本覚馬を頼って京都へ来て、女紅場で教官として働き始める。

女紅場とは、女子に英語や手芸を教える場であり、日本最初の高等女学校である。現在の鴨川に架かる丸太町橋の西畔に「女紅場址 本邦高等女学校之濫觴」の石碑が建っている。

もともと、この付近、御所に近いところから、幕末には、鴨川に沿って、九条、鷹司、近衛、有栖川と、公家の屋敷が連なっていた。女紅場は、東京遷都で空き家になった九条家の屋敷を利用して開設され、女紅場の門も、九条家の門がそのまま流用されたと言う。

丸太町橋のたもとに建つ「女紅場址」碑

IMG_0007sy女紅場跡の前を行く京都市電丸太町線、電車の右の架線柱の下に石碑があ。背後の建物は、もとの京都上電話局で、大正13年の建築。登録有形文化財に指定されている。電話事業を昭和30年代に終えてからは、通信技術資料館、電々公社の厚生施設となり、NTTになってからは、シーフードレストラン、スポーツクラブとなり、現在は地場のスーパーマーケットとなっている。時折、“文化財のスーパーマーケット”として、テレビでも紹介されている。

時の地図を見ると、女紅場は、現在跡地に建つ元電話局だけでなく、その南に連なるマンションも、その区域だったようだ。女紅場の南隣には、木戸孝允(桂小五郎)の旧宅があり、その南隣には、工業技術の研究を目的とした勧業施設、舎密局があった。その舎密局跡に建つのが、私の出た中学校だった。

さらに、同じ学区内には、同志社創立の地である、現・新島旧邸があり、さらに、立命館の前身である京都法政学校が設立された地でもあり、「立命館草創の地」碑もすぐ近くにある。この付近は、明治初期の産業・教育の中心地であり、京都の二大私学の発祥地でもあった。IMG_0008sy丸太町橋から望む元電話局。重厚なドイツ風建築は、鴨川沿いのランドマークでもあった。この近くに大津の86さんも学生時代に住んでいたと聞き、不思議な縁を感じた。当時、クラブの仲間を引き込み、夜な夜なマージャンをしていたそうな。なお、市電は、昭和52年に廃止された。

“八重の桜”ゆかりの地を訪ねる 〈1〉」への4件のフィードバック

  1. 総本家青信号特派員様
    私は総本家青信号様とは丸太町通りを隔てて反対側の西三本木通りで6歳まで過ごしました。そのころの記憶はあまりありませんが、学生時代に、貸家にしていたその家が空き家になったため、留守番兼ねて卒業前の1年余りを過ごしました。まだ丸太町通り、河原町通りの市電は健在で、辺りが静かになると、市電の走る音が聞こえたものです。当時丸太町通りのこのあたりには大きな建物は少なく、電話局の建物は目立つ存在でした。また、クラブの仲間を引き込んでマージャンしたというメンバーの1人が、先日の「しまかぜ」ツアーで38年ぶりに再会したAさんでした。懐かしい風景、当時のことを思い出させて頂きありがとうございました。
    市電が走るすぐ横に住んでいながら、私はこの辺りを撮った写真は1枚もなく、当時、SLを追って遠方に行かれると同時に、地元の風景もくまなく撮影されていた総本家青信号特派員様の熱意に感服いたしました。

  2. 大津の86さま
    京都市電の写真は、割と撮ったほうですが、地元、河原町丸太町付近は、余りにも見慣れた風景であったのと、近所であることの遠慮から、それほど撮ったわけではありません。
    大学の近くに住んでいると、お書きのように、昼夜を問わず、来訪者があったものでした。コンパの時も、電車がなくなると宿泊場所になり、ある時など、泥酔した会員(特に名を秘す)の嘔吐の海になったこともありましたよ。
    極めてローカルネタになりますが、小学校のクラス会を開くことになり、86さんの家の数軒となりの同級生のところへ、打ち合わせに行っています。

  3. 総本家青信号特派員さん有難うございます。さすが女紅場の近くで生まれ育っただけのことあっての特派員便りと思います。その後の付近の様子も京都市電を入れて詳細に説明され大変勉強になりました。続編が楽しみです。大津の86さんもこのあたりに居られたとは始めて知りました。大物がお互いに近くに居たのですね。それにしても私は京都で何をしてたのでしょう。

  4. 準特急さま
    コメント、ありがとうございます。同じ学区には、86さん以外にもう一人、いまは埼玉県に居住する、ミュージアムと京都市電にめっぽう強い会員も居ました。やはり周囲の環境がそうさせたのでしょうか。
    今日放映の“八重の桜”は、同志社命名のシーンや開学など、同志社“愛”の人間にとっては、たいへん誇らしい思いでした。

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