東武日光線の「特急スペーシア」、新宿~東武日光間のJR、東武相互乗入れの「特急日光、きぬがわ号」の影に隠れて影が薄いJR日光線であるが、東北新幹線宇都宮経由で日光に行く乗客が、ジャパンレールパスを利用する外国人観光客を中心に意外多く存在する。また「青春18」のシーズンになると日本人の観光客も増加する。また、日光市、鹿沼市と県都宇都宮市を結ぶ都市間連絡路線の役割を持ち、宇都宮市への通勤、通学、買い物等の利用客も多い。日光線を観光路線としての魅力を高めるとともに、沿線の活性化を目指し、日光、下野大沢、文挟の各駅の整備と107系の塗装変更が行われている。そんなJR日光線を8月21日(金曜日)夏休みを取り「青春18」で見学した。
いつもの出勤時と同じ時間に家を出て、午前中は烏山線に乗るか、黒磯で交流電車を見るか迷ったが、烏山線は5年前に行った時と変化がないため黒磯に行くことにした。赤羽から乗車した湘南新宿ラインE231系15連(1610E)から宇都宮で211系5連(1545M)に乗換え、黒磯で暫く待つと郡山発の2123Mがロングシートのクハ700-1251+クモハ701-1251の2連で到着した。黒磯から先の東北本線はED75が10両位の客車を引いていたことを知る世代にとっては誠に寂しい限りであった。折り返しの電車まで駅の外に出ると東野交通「那須ロープウェイ」行が、元大阪市交通局の南港コスモスクエアのシャトルバスとして使用されていたバスで到着した。平成の1桁頃、登山で利用した時には元京阪バスの京都定観で走っていたバスが、塗分けをチョット変えただけで車内の成田山のお札もそのままで走っており、乗物には全く興味のない嫁さんまでがビックリしていた。それも1両や2両ではなく、1形式1両、1形式2両の珍しい車両も含めて12両も在籍していた。
上/クハ700-1025+クモハ701-1025 下/クモハ700-1025 天下の東北本線の普通列車が2両編成とは寂しい。
【たまにはバス① 東野交通の元大阪市バスと京阪バス】
栃木22う1167 元大阪市バス南港コスモスクエアシャトルバス(4年式P‐MP618P)
栃木22う84 元京阪バス定期観光 京22か2255(54年式RC321P)
栃木22う85 元京阪バス定期観光 京22か2533(55年式RC321P)
栃木22う460 元京阪バス定期観光 京22か3246(58年式P‐RC721P)/京阪バスでは1型式1両の車であった。
栃木22う464 元京阪バス京都定期観光 京22か3244(58年式P‐RC321P)/京阪バスでは1型式2両であったが車体メーカーが異なっていた。
ここで取り上げた元京阪バスは既に廃車されている。京阪バス時代の登録番号は車台番号から割り出した。
11時55分発の1550Mで宇都宮に戻り、乗車予定の日光線13時33分発845Mまで駅の外に出ると関東自動車の元大阪市バスがきた。845Mは2両編成でクハ107+クモハ106の2連で部活帰りの学生で満員であったが、鹿沼と今市でまとまった降車があり、日光到着時には座席の半分が空いている状態であった。
【たまにはバス② 関東自動車の元大阪市バス】
宇都宮200か706(5年式U-LV224K)
宇都宮200か793(6年式U-HU2MLAA)
宇都宮200か798(6年式U-LV224K)
帰りの852Mまでの1時間、JR、東武双方の日光駅を見学したが、JR駅と東武駅のほぼ中間地点に新宿、東武日光間の直通運転の記念プレートが設置されていた。852Mは4両編成で、外国人観光客、「青春18」の客で座席が半分位埋まった。当初の予定では文挟駅で途中下車して、改築された駅舎を見学する予定であったが、外の蒸し暑さを想像するだけで下車する気がしなくなり、そのまま宇都宮まで乗車して帰った。「青春18」で出かけると、天候と気分次第で「また今度」と思ってしまうのは年の所為であろうか。帰宅後、文挟駅と下野大沢駅の改築状況が気になり、9月9日(水曜日)改めて確認に行く羽目になった。
【歴 史】
日光線の歴史は古く、明治23年6月1日、日本鉄道日光線として宇都宮~今市間を開業、同年8月1日今市~日光間が開業した。明治39年11月「鉄道国有法」により国有化され、国内各地から日光に行く唯一の手段として活況を呈していたが、昭和4年10月東武鉄道日光線が全通すると競合関係になり、従来より所要時間を1時間も短縮した上野~日光間を2時間27分で結ぶ準急列車が登場した。ちなみに、東武特急の浅草~東武日光間の所要時間は2時間18分であった。
戦時体制の強化により、「準急」「東武特急」ともに消滅したが、戦後、世の中が落着くと再び競争が激化して、昭和25年6月上野~日光間の臨時快速を運転開始、昭和31年には当時開発されたばかりのキハ44800形(後のキハ55)による準急「日光」の運転開始。昭和33年4月には電化が完成。昭和34年9月、151系並の装備を有した157系「日光形」が落成し、準急「日光」を置換えた。昭和44年4月、157系が「日光号」から撤退し急行型の165系に置換え。昭和57年11月のダイヤ改正で急行「日光」が廃止され定期の優等列車は消滅した。以降、国鉄→JR東日本は、東北新幹線宇都宮乗換え日光線ルートをPRしていたが、東武に比べると所要時間では勝るものの、乗り換えの煩わしさと高額な運賃が災いして東京周辺の人は東武の利用が一般的であった。平成18年3月18日のダイヤ改正より栗橋駅の東武、JR間に設置された渡り線を経由してJRと東武の相互乗入れにより、新宿~東武日光・鬼怒川温泉間の直通運転が開始された。これによりJR東日本は日光線の観光客輸送を諦めたかに見えたが、今回日光線を観光路線として再度見直しすることになったことは喜ばしい限りである。
【現 状】
宇都宮~日光間24往復(朝の1本は小金井始発)、宇都宮~鹿沼間4往復運転されている。朝夕は宇都宮~鹿沼間で最少18分まで間隔が縮まるが昼間は1時間間隔である。営業キロ40.5km、中間駅は鶴田、鹿沼、文挟、下野大沢、今市の5駅で、全駅交換可能である。鶴田~鹿沼間は9.5kmと長く、鹿沼市とJRにより中間駅を設置する計画があるが、住民からは「そんなとこに駅作っても誰が乗るねん」という意見があり、かつての栗東新駅と同じ構図である。文挟が無人の他は有人駅で下野大沢は委託駅である。
宇都宮駅の標高が約150mに対し日光駅の標高は533mである。宇都宮~鹿沼間はほぼ平坦線、鹿沼~今市間は10~20‰、今市~日光間は20~25‰の勾配が続き、旧形時代はモーター音高らかに登っていったが、107系は120KWのMT54のモーター音も軽やかに勾配を登っていく。文挟~下野大沢間は牧場の直ぐ横を走る区間があり、中に入れてもらえれば牛を入れての撮影が可能である。
競合路線として、宇都宮駅~日光東照宮間に関東自動車がほぼ1時間に1本運転されているが、途中のルートが日光線とは異なり、運行距離が長いため行楽シーズンは交通渋滞に巻き込まれやすいのと、運賃がJRより高いので通しで利用する人は少ない。以前は30分間隔で運行され、元観光バスの車両を使用していたが、現在は通常の路線車である。宇都宮~鹿沼間はラッシュ時10分、昼間20分間隔で頻繁に運転されており、運賃はJRより高いが、両市の中心部を通りドアtoドアで利用できるため乗客が多い。宇都宮、鹿沼ともに市の中心部は東武の駅付近で、バスはJR宇都宮駅から東武宇都宮駅、JR鹿沼駅の近く通り東武新鹿沼駅の少し先の新鹿沼出張所が終点である。以前は昼間も10分間隔で運転されていた。また、宇都宮~鶴田間は市内線のバスが頻繁に運転されている。
全くの余談であるが、東野交通のバスは東武宇都宮駅が始発でJR宇都宮駅を経由して各方面に運転されており、鉄道では大回りになる宇都宮~真岡、宇都宮~益子間は利用者が多く、本数もそれなりにある。面白いは宇都宮方面行の方向幕で「東武宇都宮」ではなく「宇都宮東武」と表示されている。京都市バスや京阪バスの「三条京阪」と同じ思想であろう。ところが江若鉄道のバスは「京阪三条」となっていた。宇都宮~茂木間もJRバスが運転されており、こちらもそこそこの本数があり、かつては茨城交通茨城線の終点御前山まで、更には水戸駅まで行く便もあった。
シックな佇まいのJR日光駅
上から正面玄関、待合室、駅名板、4カ国語で書かれた団体出口の案内板
ロッジ風の東武日光駅
相互乗入れ記念プレート(双方の日光駅の中間地点にある)
改築された下野大沢駅
改築された文挟駅
下野大沢、文挟の両駅が改築されたのは、元々駅舎が老朽化しており改築の時期にきていたのと、規模が小さく簡単に改築が可能であったためであろう。鶴田、鹿沼、今市の各駅は規模がそれなりに大きいため当面は現状のままと思われる。