1954年3月北陸から長野、三重 その1


近江鉄道ホハフ3 1954.3.23 近江八幡 旧湖南鉄道のキロハ2→八日市鉄道キハニ2→  旧機関室は左側 戦後まで現役蒸気動車だったが客車化の際中央にも扉を設けた その後ハニ2 台車は両方共蒸気動車時代の付随台車である
 
九州の修学旅行から帰ったのが1954年3月17日。それから頑張って級友の写真をプリントし、代金を稼いでフイルムを買い、春休みになるのを待ちかねて今度は京都-富山-松本-名古屋-木津-京都の学割切符で、3人で超超ビンボー旅に出た。1人はアルゼンチン・タンゴファンなら必ず名前を知っているFS先輩(小生の4歳年長だが、なぜか彼が同志社を卒業した2年後小生が入学)、もう一人はやはり山科の住人で、2歳年長のIS先輩。


近江鉄道1号電機 のちED221 一畑電鉄を経て弘南電鉄でまだ現役のはず 元来は信濃鉄道1から国鉄ED221→西武鉄道1 1954.3.23 彦根

先ずは近江八幡、彦根で近江鉄道を撮る。いくらでも車両はいたはずなのに、なぜたったの3枚しか撮っていないのか分からない。やたら長く見える木製ボギー車フホハユニ31はその後長らく小生を悩ませた。側面は狭い窓2個毎に旧扉であるやや広い窓があって、旧側戸式であったことを示す。我国でのボギー車で側戸式とは、旧鉄道作業局ハボ1~9→コハ6500~6508の9両(英国製)しかない筈で、一部は北総鉄道→総武鉄道に払下げられ、車体が柏で物置になっていたのが車窓から見えた。この一統が近江に、なんて聞いたこともない。しかも窓配置は合致しないし、真中部分は少しおかしい。


近江鉄道フホハユニ31 2軸マッチ箱客車2両をつないで誕生したボギー客車 彦根

後日一人悩んでいたら、電車の大家であるO大先輩が、ありゃ戦時中吹田工機部で2軸客車を2両くっつけたんだ、と教えてくれた。そんなことは全くの想定外だったから、大きな溜息が出た。はるか後年までも近江のボギー客車には執念を燃やし続け、やっと解明は果したが、1912(明治45)年4月10日彦根車庫火災で多くの車両を焼損した後、1913年と1916年に2軸客車12両をつなぎ誕生した6両のボギー客車のうちの1両であった。

施工は自社となっているが、恐らくは加藤工場(加藤真次郎→加藤車輛製作所)の出張工事であろうと推定している。戦時中の吹田工機部云々とは、両端のオープンデッキを引戸に、中妻を撤去した多客対応改造で、当時民間車輌工場は陸海軍の指揮下で武器製造を強要されており、かような改造は国鉄工機部が受け持っていたのである。

英国系構造の木製客車は台枠と車体が切り離せるから、台枠をデッキ分ずらし、中央で不足する分は他の台枠を使う―2.5両分の台枠を使っての車体接合だったのである、台枠に2か所、当て金と盛大にリベットを打ち込んだ部分がその継ぎ目である。

福井に早朝5時04分に着く533レは米原1時46分発でで、待合室は寒くて堪らず、暖房の温気が若干でも残っているだろうと、留置中の客車に入り込んでウトウトしていたら、駅員に見付かって追い出された。その目を盗んで又別の客車に忍び込み、またウトウト。


福井鉄道モハ3 福井駅前 1954.3.24 気分のいい木製電車である 


福井鉄道モハ22

福井に着いたが余計寒い。それでも明るくなるのを待ちかねて何枚か―京福は大したものが撮れなかったが、福井の木製1型は大いに気に入った。


福井鉄道モハ64 福井駅前


福井鉄道モハ31 武生

福井鉄道モハ122 福井駅前

京福電鉄ホデハ1003 福井


福井電鉄ホサハ61 モハ63系のショーティで幅も狭い 台車はTR10 福井

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