1954年3月北陸から長野、三重 その3


金沢機関区でのE104

金沢駅で見た国鉄モハ2310 旧宮城モハ601で、元来2・3等合造車だった由。汽車東京製の田舎くさいデザインで、宮城の電車はスマートかダサいかのどちらかである。

小松を上機嫌で後にした3人は金沢へ。ここでも根をつめた撮影はせず、機関区ではE10を1枚撮っただけ。立山重工業の産業用Cタンク機が1両機関区の隅に放置されていた。

駅のすぐ裏?に北陸鉄道金石線のうらぶれた中橋駅があった。ここに先ほど小松で見たと同じ小柄なボギー客車が2両(現実には3両だったが)いるではないか。この時は何やら親しみを感じただけだが、はるか後年、身元と変遷解明に血道を上げることになろうとは。


北陸鉄道金石線サハ521 ←ハ14←金石鉄道ハ14←国鉄コハ2475←簸上鉄道ホハ10 貫通路は窓1個に変わっている。

左は不思議な付随車サハ531 反対サイドには中間扉がない 右はサハ551

北陸鉄道金石線モハ1201

サハ551は北陸コハ1←金名鉄道コハ1←国鉄コハ2474←簸上鉄道ホハ8。後で知ったことだが、簸上鉄道は3回に分けホロハ1~3、ホハ4~10と、合計10両の同系ボギー客車を揃え、買収(木次線の一部)でコロハ1620~1622、コハ2470~2475に。余りにも小さいのですぐ処分され、出石、金石、温泉電軌、金名に払下げられた。出石は企業整備で強制休止となり、旧コロハ3両(→コハ1500~1502)は東武が引取ったが戦災、1両のみコハ120として敗戦後も姿をとどめており、高橋弘氏が撮影している。

結果的に北陸鉄道に集結した7両は同型として問題ないのに、僅かな重量の差や出所で分け、サハ501(金石)、511(同)、521(同)、551、552(金名)、561、562(温泉電軌)と5型式にした。このあたりはやはり寄り合い所帯の三重交通が似ている。サハ551は妻面も原型をよく保っている。

ところでサハ531は世にも不思議?な付随車である。やたらめたらと寸法が小さい。自連が何とも大きく重そうに見えるから、車幅、床高や車輪径が想定できるだろう。一見路面電車の3扉車のごとく、中央扉が両開きだが、この中央扉は片側にしかないのである。前後の引戸は恰幅のいい人なら通れないのではないか。おまけに妻面には方向幕穴まである。前身は金石鉄道ハ4、5、梅鉢大正4年製、それ以上はワシにも分からんと、なんでもすぐ教えてくださった故吉川文夫氏もお手上げ。この付随車に関しては、納得のいく解説等にはまだ接したことがない、というより、まともな紹介すらないのではないか。


北陸鉄道浅野川線モハ572←デハ13 汽車東京大正14年製

北陸鉄道金沢市内線2003

北陸鉄道金沢市内線2103


富山地方鉄道モハ14752 地鉄富山

富山地方鉄道デニ6002 富山地方鉄道←富岩鉄道ボ1買収車 妻面は5枚窓だった


国鉄モハ1901 伊那電気鉄道デハ101買収車 富山

国鉄クハニ7301 宮城電気鉄道クハニ702買収車 岩瀬浜

駆け足で金沢、富山を通り抜け、大糸線は全通していないから、直江津経由の大回りで長野着。ここでステホしたのだが、その寒い事寒い事。1人が荷物(というほどのものはないが)を見張り、2人が坂道を善光寺までランニングで往復し、その体温が残っている間にウトウトすると云う、情けない一夜になった。

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