DD401、ありました

ことし初めての投稿です。正月以来、雑事に振り回されていましたが、ようやく冬眠から覚めて、掲示板に向かいます。

まずは、掲示板に寄せられた問い合わせについて、私なりの回答から。

以前、西村雅幸さんから、「DD40の目撃者、おられませんか」として、新三菱重工で製造された試作ディーゼル機関車、DD91について、配置された梅小路区・吹田区での現役の姿の問い合わせがありました。

同機は製造後、昭和31年5月、梅小路区へ入換用に配置、昭和35年5月から吹田一区で、吹田操車場、尼崎港線で使用され、昭和37年3月に新三菱重工へ返却されています。

昭和37年返却とあれば中学一年生の時、残念ながら私も写していませんが、“何かあったはず”と探しますと、ありました。以前にTさんからいただいた写真でした。ただ、モノクロのため、お望みの塗装は判然としませんが、古いピク誌を見ますと、“ブドウ色”と記されていましたので、茶に白線のような気がします。ただ、鉄道図書刊行会「日本の内燃車両」に掲載されている同機の写真と比べると、白線の太さ・回り方が違い、ある時期に塗装が変更されているようです。模型作りの参考になれば幸いです。

余談ですが、その後に、新三菱重工で試作されたDD91も、福知山区に配属され、山陰本線の京都~福知山で使用されました。返却は昭和40年ですので、私も京都駅で何回か撮っています。返却後、山陽本線すぐ横、三菱三原の工場側線にしばらく置かれていました。呉線へ行った時、電車から見るのが、楽しみのひとつでした。

EPSON scanner image

 梅小路機関区のDD401。昭和30年代、外国の技術と提携した試作ディーゼル機関車が国内の車両メーカーで製造された。その多くは、国鉄が借り入れて、旅客列車の牽引、入換に供され、ディーゼル機関車の有用性の検討と、無煙化の一助とした。1形式1両ばかりで、当初は40台の追番、のちに90台の形式が付けられた。

DD401、ありました」への2件のフィードバック

  1. 特派員殿
    イヤー驚きました。まさか特派員殿から出てこようとは。それも鮮明な写真で感激です。Tさんとは五条坂のTさんでしょうか。それはともかくこのDD401の写真は大変貴重です。「日本の内燃車両」やネット上で見つけた写真はすべて反対側(運転士席側)ばかりで、このサイドの写真が見つからなかったのです。運転台からランニングボードに出るドアがランボード幅より少し広いのでボンネットが少しえぐられている筈と推定していましたが、それが確認できました。それから完成時の白線は太かったのが 国鉄貸出期間中に細くなった写真もあります。DD91は私も京都駅で写しています。C51がいた時代でしたね。亀岡から通学していた友人がときどき遅刻するので理由を聞くとDD91が故障して列車が遅れたと言っていました。三原の側線は私も山陽線を通るときの楽しみな場所でした。なつかしい思い出です。ともかく半世紀近く前の写真を所望すると こうして出てくるので またしてもクローバー会の底力を実感しています。貴重な写真をありがとうございました。

  2. 西村様
    さっそくのコメント、ありがとうございます。お役に立てたようで、私もたいへん嬉しいです。Tさんは、五条坂ではなく、中京区にお住まいのTさんです。以前の「鉄道ファン」の連載記事にも、試作DLがカラー写真で紹介されていましたが、このDD40だけは、このTさん撮影のモノクロ写真でした。まだカラー写真は見つかっていないのでしょう。白線については、当初は太く、途中で細く改められたようです。同時に端梁部がトラ模様になっています。

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