福塩線開業100周年(その4)

中国新聞の3連載で終わりと思っていましたが、22日の朝刊に記念イベントの記事が載りましたので 番外編としてご紹介します。福塩線音頭なるものがあるとは知りませんでした。

H26-7-22 中国新聞

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福塩線開業100周年(その4)」への2件のフィードバック

  1. 福塩線は懐かしいですね。1965年GWに義父の出生地(備後安田)へ夫婦で墓参及び親戚めぐりに行きました。福山で迎えてくれたのはモハ51の2連で、府中からはキハ20でした。義父の妹宅に泊まり、三次経由で帰京しました。この時、塩町から朝夕1本、8620牽引の客レが福山まで往復しているとの話しを聞きました。1985年、東京から義弟が子供2人連れでやってきました。伯父さんに連れられ田舎に行く事になりました。盆休みの山陽本線は混むから赤穂線経由で岡山-福山としました。福山で待っていたのはスカ型4連でした。府中からのキハは変わりなしでした。到着した夕方、田圃で花火していたら叔父がやってきて、「九ちゃんのジャンボが落ちた」と言うので、あわてて叔父宅に帰りました。帰路は広島廻りで、原爆ドームの前で1946年夏休みに見た惨状をを話してやりました。その後、新幹線は超満員であるので、またもや山陽本線で神足到着となりました。1990年、メーカーご招待で府中の工場へ行きました。新幹線と貸切バスで府中の工場へ。翌日はゴルフ組と観光組です。私は【墓参】と言って単独行動をとりました。府中から奥はキハ120、福山へはモハ105、共にワンマンカーでした。福山駅前では本隊の新幹線待つ間、路線バス4社の出入りを取って居りました、最後の1枚ではなく30枚だったでしょう。

  2. 乙訓のご老人様
    毎度コメントを頂き ありがとうございます。いつも思い出話をご披露して頂くのですが、不思議に思うのは 何年にこんなことがあって その時の行き帰りのルートはこうで・・・というエピソードも含めてのシーンが しっかり記憶のなかにおありなのか 日記のようなものを手掛かりに思い出を紐解かれるのか 自分に置き換えていつも感心させられます。何か鉄道関連のインパクトがあると そのときの光景が自然とよみがえってくるのでしょうね。

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