50年前の撮影地を歩く -5-余話

50年前の山科大築堤に対して、西村さんから「貨物列車も」とのリクエストをいただきました。なるほど、載せた写真は旅客列車ばかりで貨物列車は一枚もありません。ところが、撮影に行っても旅客列車だけで腹いっぱいになり、貨物列車はほとんど撮っていません。いまでこそ、貨物列車はすごい人気ですが、当時はほとんど顧られなかったような気がします。わずかな写真のなかから、50年前の貨物列車を偲んでみました。
山科50年前3この年に新形式のEF65が吹田第二機関区からデビューしている。EF60の三次車をベースに、歯車比の変更、新設計の制御器を積み、高速走行と牽引力の向上をはかった。その後、ブルトレ牽引のP型などの派生番台を生み、合計308両と言う電機の最大両数となるのだが、デビュー当時は、それまでのEF60と変わらない外観に、それほどの話題に上がらなかった。

山科50年前2当時の貨物列車の牽引は、このようなEF60、その後部のEH10が中心だったが、時折、デッキつきのEF15が頑張っている姿があった。60番台の新型電機には、この大きな1個ライトが、いちばんよく似合っていた。この写真、右下をよく見ると自転車が止まっている。下から築堤へ登る小道が随所にあって、自転車でも登ってくることができたのだ。駐輪場代わりだと思うが、犬走りも広く、南側の線は不使用だったので、築堤上を自転車で走ることもできた。
50年前3突然、EF58の牽く貨物列車が来ることもあった。これは草津線に直通する列車で、草津からはD51に交代している。
山科50年前もうひとつの主役、EH10は真っ黒な2車体で存在感があった。これは、もっと後年の撮影だが、EH10が重連で牽く下り貨物、後はパンタを下げた無動力回送だが、黒い4車体は、なかなかの迫力だった。この頃には、大築堤は厳重な柵に囲まれ、近づくことは不可能で、駅付近で辛うじて撮影できた。
羽村154もうひとつ前項の「愛称なしの急行」について、昭和40年8月号の時刻表臨時列車欄を掲げる。このように愛称欄は空欄になったままだ。臨時列車の多かった首都圏-東北では、愛称なしの急行・準急は、この当時何本か存在したが、天下の東海道線でほかにも例はあるかと、時刻表を繰ってみたところ、所有している昭和38年、39年、42年の夏臨では見つけることができなかった。41年時刻表の夏臨掲載号は所有していないので不明だが、おそらく昭和40年の3日間だけではなかったかと思う。

さらに調べると、興味深いことが分かった。下りの愛称なし急行も掲載されていたが、運転日は8月31日、9月1日の運転で、約一ヵ月のズレがある。このズレから推察すると、混雑の激しい首都圏-東北の臨時列車増発のため、新幹線開業で比較的客車に余裕のできた関西地区から、客車を振り向けたのではないだろうか。上りは送り込み、下りは返却で、本来は回送とすべきところ、ついでに客扱いをしたと言うのが、愛称なし急行を生んだ真相ではないだろうか。

50年前の撮影地を歩く -5-余話」への2件のフィードバック

  1. 特派員殿
    さっそくリクエストに答えて頂きありがとうございます。EH10,EF65,60,58,15と機関車も多彩ですが、それにも増して貨車のバラエティーの豊さは現在と比べようもありません。冷蔵車や小型の有蓋車ワも数多く見られたものです。しかし貨車は写すものではなく、見て楽しむものという感覚でした。今となってはあとの祭りです。なつかしく、また一時代を切り取った貴重な写真をありがとうございました。

    • 西村さま
      ありがとうございます。そうですね、現在のようなコキ一辺倒の貨物に比べて、なんと興味深い編成なんでしょうね。でも書いておられるように、貨車は写すことはなかったですね。ン万枚撮っていた私も、国鉄の貨車に限定すれば、10数枚しか撮っていません。雑誌を見ると“貨車プロフェッサー”という方が貨車のことを連載しています。古くから貨車に着眼していた点がほんとエライと思います。

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