50年前の撮影地を歩く -10-

初の雪中撮影で米原へ <その2>

50年前の米原、初の雪中撮影記を続けます。午前中は、一面の鉛色の空だったものの、午後からは晴れ間も見えてきました。雪の反射を受けて、列車の下回りもきれいに出て、雪の撮影の良さを満喫します。今では人家も建って見通しが利きませんが、当時は、分岐して行く東海道線の上り線がよく見えて、両方を掛け持ちも出来ました。

160118 021sy交直接続の米原~田村が電化し、田村駅南に交直のデッドセクションが設けられたのが昭和37年で、その時に、浜松工場でEF553の機器を流用して交直両用の電気機関車ED301が製作された。短区間の米原~田村の折返用に特化した凸型のセンターキャブを採用、屋根が狭いため当時では珍しい下枠交差形パンタを載せた。それまで、蒸機で間接接続しかできなかった直流・交流区間を跨ぐ列車牽引を、初めて電機が担った。交直両用の471系と同じローズピンクの塗色が、雪のなかによく映えていた。

160118 018syD50の引く貨物列車は、時間帯によって、上り、下りに本数の偏りがあり、それを調整するため、D50重連の回送がよく見られた。とくに、当日は、下りに運休があったようで、とくに回送が多かった。これは、D50131+D50328の異なるスタイルの回送。
160118 027sy午後になると、下りの貨物列車も数本が走り出した。7両いた米原区のD50のなかでの白眉は、化粧煙突、切り欠きデフ、キリ番号のD50200、D50300の2両だった。それぞれ富山、糸魚川区に在籍していた。北陸本線で親不知あたりの海岸線を縫うように走っていたことを想像する。
160118 031syこちらはパイプ煙突と、ずいぶん素っ気ないD50350。ただ、米原では最古参のD50で、E10が走っていた時代に、もう入線していた。
160118 029sy金沢へ向かう「雷鳥」も、雪晴れに車体をキラキラ輝かせて通過して行く。昭和39年の富山電化で、「しらさぎ」とともに481系電車で走り始めた。「雷鳥」はそのあと飛躍的に本数を伸ばしていくが、この時代は、第◎でも、◎号でもない、ただの「雷鳥」だった。
160118 033sy夕方に撮影は切り上げて、国道を歩いて駅へ戻る途中、米原第二機関区を見る。EH10を始め、EF58、EF60の旧色がたむろするが、1両だけEF65の500番台も見える。
160118 032sy米原駅に入場すると、15時54分発の下り急行「第一なにわ」が1番ホームに入線してきた。当時の米原駅構内は、機関区設備は縮小されつつあったものの、構内の配線は、電化前と変わらない、上下ホームが離れて、その間に機関区を抱き込んだ、大規模なものだった。「なにわ」が停車しているのは、下り1番ホームで、ホーム端部は風雪除けの塀が設けられている。上部に掲げられている円板は気象告知板で、通信手段が限られていた時代、気象台からの通報をもとに、鉄道管理局から電報で運転現場に伝え、現場はただちに気象告知板を掲出したと言う。国鉄の場合、円板の地色は4種類に分けられ、風は「赤」、雨は「青」、雪は「緑」、その他は「橙色」となっていた。写真から判断すると「雪に注意」のようだ。今日では目にする機会もなくなった気象告知板だ。

syoIMG_2594 syoIMG_2566そして、50年後の雪の米原、と言っても直近の撮影はなく、5年前の2011年1月、ぶんしゅうさんと行った「北びわこ号」、そしてその回送が坂田~田村を行くシーン、雪が積もると、邪魔なものも隠してくれて、付近は50年前の雰囲気そのままだった。交直接続区間だったはずの、この区間を、直流機が平然と通り過ぎて行くのには、いまも違和感を覚える。

 50年前の撮影地を歩く -10-」への2件のフィードバック

  1. 朝から夕方までよく1カ所に留まりましたね。それに米原も結構歩かないと駄目ですね。写真の大家にコメントを差し上げるのはいささか気がひけますが、あちこち移動せずに1日同じ場所で撮影した方が記録的に作品的に充実するような気がします。移動が頻繁であるとどうも中途半端な結果になるようでして、それに移動する時間にとられて撮影対象の列車が少なくなってしまいます。それにしましても思い切った撮影でこの時代の北陸系の列車の収穫は満足の行くものであったことと思います。気になるのはD50350のパイプ煙突とシールドビーム。C51やD50は化粧煙突が本来の姿で、パイプ煙突になると興醒めしたものですが、さらに前照灯があの様なライトでは迫力が失せます。総本家さんの発表では確か九州のC57178がシールドビームであったように記憶しております。しかし、D50のシールドビーム姿もそう多くなかったので一つのバリエーションとしてみると面白いのかもしれません。

  2. 準特急さま
    コメント、ありがとうございます。米原も結構歩きますが、当時は、東海道線とY字に別れると、すぐに田んぼが広がり、今と比べると、比較的、歩かずに済みました。私は、若い時代ほど、一日一ヵ所、という撮影が多かったように思います。これは、移動の時間が勿体ないのと、移動の交通費を掛けたくない気持ちもあったと思います。確かにD50は、C51などに比べて、原形機が多かったような気がします。と言っても、私が撮れたのは、米原以外では、筑豊のD50のみでした。北海道も、釜石線、磐越西線、信越線など本州のD50も、見た記憶もありませんので、対象のD50は、極めて少数でしたが、その中でシールドビーム機は、350だけだったと思います。少数機に焦点が当たる世の常を思うと、パイプ煙突、シールドビームという興ざめ機関車も、それはそれで貴重なものだったのでしょう。

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