KAWANAKA氏が「寒中北海道見聞録」の復刻版を連載されています。その4号車で予告がありましたように 私がこの旅で出会った夕張鉄道の車両とは その後も各地で再会することになりました。そんな後日談を紹介したいと思います。
夕張鉄道を訪ね、写真を撮り、気動車に乗ったのは昭和44年2月27日のそれも半日程度でした。夕鉄は昭和46年11月には栗山・野幌間に短縮され、昭和50年3月末に廃止の運命をたどります。ところが 永く鉄道趣味を続けている者の特権かもしれませんが、その後 各地で元夕鉄君に出会うことになるのです。それを具体的にご説明しましょう。夕鉄にいた湘南タイプの気動車6両は 夕張を離れて津軽海峡を渡り、第二、第三の職場を得てゆきます。そんな彼らに各地で出会う機会に恵まれました。
まず簡単に6両とのご縁を整理してみました。下線は再会を示します。
- キハ251(庫内にいた)→関東鉄道(鹿島鉄道)キハ714→廃車
- キハ252 →水島キハ303→岡山臨港キハ7001→英田町→先頭部保存(柵原町)
- キハ253(乗って車内撮影)→水島キハ304→岡山臨港キハ7002→英田町→解体
- キハ254(野幌で撮影)→関東鉄道(鹿島鉄道)キハ715→廃車
- キハ301 →水島キハ301→岡山臨港キハ7003→岡山ちどり保育園に保存
- キハ302 →水島キハ302→事故廃車
①キハ251
鹿の谷では木造車庫の中にいたキハ251を撮影しましたが、関東鉄道鉾田線の石岡で再会しました。
②キハ252
夕張ではキハ252とは会っていませんが 岡山県英田町の国道374号線沿いの食堂に保存されていた時に2度再会しました。
キハ252は解体される際に前頭部だけが残されて、柵原のふれあい鉱山公園に保存されたそうです。一度柵原を訪ねて20何年ぶりかの再会を果たさねばと思っているところです。
③キハ253
栗山から野幌まで乗り、車内風景や野幌で撮影したキハ253とは 水島臨海鉄道で再会し、その後もう一度 英田町で会いました。
ところがキハ253とは思いもよらないサプライズがありました。私が大津での江若鉄道関連のイベントに何度か関わったことがきっかけで、江若鉄道の気動車をNゲージで製品化する話が持ち上がり、その模型製品化の監修をさせて頂きました。それによって模型メーカーのトミックスさんとご縁ができました。江若キニ9、キハ12、キハ14の製品化や発売開始も無事終わったある日 トミックスから小さな箱が届きました。何と江若3両に加えて すでに商品化されていた夕張キハ253と岡山臨港キハ7002の模型のプレゼントでした。そんなわけで我が家ではキハ253の当時の姿や岡山臨港での姿をいつでも見ることができます。
④キハ254
キハ254はキハ253と2連で走り、野幌で撮影しました。関東鉄道石岡で再会しました。
⑤キハ301
キハ301は水島臨海の旧水島機関区と走行中の2回撮影しています。そして岡山臨港での務めを終えて 岡南元町にほど近いちどり保育所で園児に囲まれた静かな日々を送っているのは何よりうれしい再会でした。
⑥キハ302 キハ302とは残念ながら出会いがありませんでした。
ということで 一期一会を大切にとよく言われますが 夕張鉄道の気動車たちとは永くご縁が続いているというお話でした。
西村雅幸様
「昔の恋人に会ったような気持ち」というキザなことは申し上げませんが、譲渡車両との再会は数ある鉄道趣味の一ジャンルですね。高齢鉄ちゃんの特権かもしれません。ただ最近は譲渡先の鉄道会社が少なくなっており以前ほど頻繁に行われていないのが残念です。夕鉄は野幌でも撮っております。関鉄は私も撮れていると思いますが確認してみます。電車の世界はまだ東急や西武から中小鉄道へ譲渡があるようでその意味で譲渡前の姿を撮っています。最近はJRなどからは東南アジア発展途上国に電車、ディーゼルカーが譲渡されており、JR武蔵野線で撮った103系や営団(現メトロ)の同一車両はインドネシアでも撮っております。ミャンマーの元JR久留里線のディーゼルカーやフィリッピンのJR203系も撮りたいのですが海外旅行が出来なくなって諦めております。西村さん他皆さんのご指導で近く訪問する雲南市の蒸機も53年振りの再会で楽しみにしております。有難うございました。
準特急様
いつも暖かいコメントをありがとうございます。明日19日には水島臨海に最後まで残っていた国鉄キハ20(水鉄キハ205)のお別れ運転があるそうです。私は残念ながら他用で行けませんが、譲渡先でも終焉を迎える歳回りに入ってきていて淋しくもあります。雲南市でお会いできるのを楽しみにしております。
寒中北海道見聞録シリーズ4号車で西村しが、その後の繋がりをUPしました。その後のご縁があって、このように繋がりができていくことは素晴らしいことと思います。良いきっかけを提供してくれた見聞録に感謝。これもまだ続くのでご期待ください。
話は飛躍してしまいますが、この復刻版後編の原稿を作りながら、このような旅行記は50年、100年を経ると貴重な歴史の記録になりうるということを感じます。我々の記事がそれに該当するという意味ではありませんが、駅弁の値段であったり車内での出来事だったり日常的なつまらないことの積み重ねが当時の世相を物語っているように思います。我々には写真というすばらしい道具が使える時代におりますが、写真が普及する以前は絵で残すしか記録手段がなかったわけです。「寒中北海道見聞録」とは比べものにはなりませんが、「萩藩行程記」という江戸時代中期に書かれた旅行記があります。これは萩藩が江戸まで参勤交代する道中の街道風景を従者が絵と文章で残したものです。当初萩藩は三田尻(防府)から瀬戸内海の海路をたどっていましたが 途中から陸路山陽路に変更されます。そのために我々備後街道沿いの様子が絵とともに記録されていて300年前の様子を知ることができる貴重な記録として郷土史家のバイブル的な扱いになっています。昨今はやりの「記憶に頼る」のは実にいい加減であり、やはりしっかり書き、写真で残すことが大切だと感じています。