◆ た~ちゃんの電車めぐり ⑯

市電の全廃
大村昆ちゃんのCM“ミゼット”が評判になったのは昭和30年代の後半の頃でした。政府の提唱する国民車構想が実を結んだのもその頃でした。日本はいよいよ自動車の時代に突入です。京都市電では、北野線を最初に、昭和45年、大阪万博の年に、日本最初の電車が走った伏見線を廃止にしました。以下、昭和47年四条・千本・大宮線、49年烏丸線、51年今出川・白川・丸太町線、52年河原町・七条線、最後まで残った外郭線は昭和53年9月いっぱいで廃止になりました。京電以来の83年7ヵ月の幕引きとなってしまったのです。昭和30年代の京都駅前、「いなり」の行き先幕の烏丸線市電が到着する。京都市電の全盛期のシーン(今回より、当会OBの故・羽村宏さん撮影のカラーを掲載します)

四条・千本・大宮線廃止で、同時に閉鎖となる壬生車庫最後の夜、1月22日はとても悲しい日でした。最終電車が車庫に戻ってきた時、万歳の声に迎えられたのです。思わず「万歳はうれしい時にするもんや。四条通から市電が消えたのに、何が万歳や!」と絶叫し涙に暮れました。
電車と自動車は、19世紀末に時を同じくして生まれました。大量輸送ができる電車が一歩先んじましたが、20世紀に入るや、自動車に追い上げを食い、大発展した米英では、第一次大戦後は、前世紀の遺物とされ衰退の一途を辿りました。第二次大戦後、こうした戦勝国の都市の姿が日本にも伝わり、路面電車は、時代の流れにそぐわないものだとする風潮が広まってしまいました。
どっこい、ドイツを中心とした西ヨーロッパの各国、鉄のカーテン内部では路面電車は生き残っていました。西ドイツでは戦後の都市復興建設のなかで、路面電車を都市交通の中心に据える、さまざまな試みがなされていました。
市電廃止の続くなか、「市電をまもる会」では諸外国の状況を紹介しながら、一度線路を外してしまうと二度と戻せないと訴え、請願署名に取り組みましたが、市当局も市議会も耳を貸そうとはしませんでした。私は残念でした。京都市電の最終日は昭和53年9月30日のことだった。やがて日付が変わろうとする烏丸車庫前を、「終」を付けた九条車庫行きが発車して行った。あれから40年経ち、京都の街もすっかり変わってしまい、市電の記憶も薄れてしまった。そんななか、この1930号は、1914に改番されて広島の街で元気に走っているのが嬉しい。以前、クローバー会で貸切乗車した際に、横川駅前で1914号とすれ違った。京都市電の最終電車だったことを思うと感慨深いものがあった。

 ◆ た~ちゃんの電車めぐり ⑯」への5件のフィードバック

  1.  九条車庫行き京都市電最終電車の写真は、総本家青信号特派員さん著「京都の市電」でも拝見させて頂いていますが、横に写っている大型ビデオカメラを持っている眼鏡の方、その横の背の高い方、その横の方、一番端の市交職員の後の眼鏡の方、それぞれ名前は申しませんが、良く存じ上げた方々のように思えてなりません。
     単なる錯覚なのか、老人性なんとかなのかもしれませんが、もしその方々だったら、最終まで見送りされて、DRFCの誇りと思います。
     お世話になった京都市電、有り難う!DRFC万歳!

  2. マルーンさま
    はい、私の撮影したものですが、マルーンさんに指摘されて、初めて私も現場の人たちの顔をじっくり見ました。そうですね、誰かに似ていますね。でも、その時の記憶も薄れています。永遠の謎としておきましょうか。
    “た~ちゃん”の原稿を入力していて、壬生車庫前で泣き叫んだというくだり、思わず目頭が熱くなりました。ホントに電車が好きなんだなと思いました。

  3. 京都市電がなくなってからもう40年経つのですね。そう考えると広島の街を元気に走り回っている1900型15両が一段といとおしくなってきます。京都での現役時代も含めると定年退職、雇用延長レベルです。京都のラストラン1930号は広島に来て1914号になっています。確かに横川駅前に姿を見せてくれたのも不思議なめぐり合わせだったかもしれませんね。昨年9月の1914号のカットを添付します。1900がんばれ!

    • 西村雅幸様
      継続は力なりと申しますが・・・車両の出来やメンテナンスの良さ等々、現在まで活躍ということは。素晴らしいことですね。
      市交職員の後の方も喜んでおられることでしょう。合掌

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