市電が走った街 京都を歩く トロバス編③

前記のように、最終日に近い土曜日、DRFCの面々とトロバスの撮影会に行っていますが、その時は、梅津車庫も訪問して撮影しています。梅津車庫は、トロバスの専用車庫として、昭和33年に開設されました。その後、昭和42年に、四条御前にあった市バス四条車庫が、梅津車庫に統合されて、市バス車両も配置されるようになりました。トロバス廃止後は市バス専用車庫となりますが、隣接する京都外国大学に用地を提供し、大学の校舎の下に車庫機能を置く、珍しい構造の車庫となりました。1990年にバス停留所名も、「梅津車庫前」から、「京都外大前」に改称されています。さらに2003年には五条車庫の廃止に伴い、車両が転属し、京都市バスを代表する車庫となっています。

梅津車庫の出庫線にズラリと並んだトロバス、前2両は200形で、そのあとに300形が続く。トロバスも市電の仲間だから、当時、朝7~9時に実施していた急行運転も行っていた。「急」マークは車庫で借りて取り付けた。

 

まだボンネットバスもいた梅津車庫、トロバスと市バスが同居していた。

梅津車庫のトロバス 開業時の英国製4両に加え、国産車3両の計7両が、戦中戦後、四条大宮~西大路四条の運行に当たっていた。ともに老朽化し、部品調達もままならなくなり、戦後の新製車100形6両が、昭和27、28年に登場した。これで戦前製を廃車とした。100形の乗降扉は中央部1ヵ所のため、ラッシュ時の客扱いに手間取り、そのため、車体を大型化するとともに、前部にも扉を設けた2扉の200形2両を昭和30年に増備した。さらに梅津線のトロバス化、松尾橋延長時に伴って、あらたに300形を昭和33~40年に18両を製造した。

廃止時の車両 200形は、201、202の2両だけだった。100形と同型で、扉が前中になった。全長も100形より少し長くなった。▲▲300形は、301~318の18両あった。扉は前後になった。最終の318は昭和40年の増備だから、4年しか持たなかったが、別の用途に活用されることに。計20両が廃止時の全容だった。

梅津車庫のスナップ 廃止まであと3日となったこの日、最小限の稼働車のみを残し、予備車を架空線のない空き地に、職員の力で押し込める作業が行われていた。このように、架空線がないところでの移動や、集電のトラブルに備えて、トロバスには補助動力があったはずで、現在の関電トロバスでも、バッテリー電源で、ある程度の移動は可能と書かれていた。また東京都では、1500V鉄道との平面交差では、600Vのトロバスに小出力のディーゼルエンジンを搭載して、交差の間は、ポールを下ろして、内燃動力で一時的に走行していたと言う。

架空線が複雑に交差する、梅津車庫前に停車するトロバス。いつも貴重な資料を提供していただいている、知り合いのSさんから「どうぞ使ってください」と提供を受けた昭和33年ごろの梅津車庫前。廃止を目前にした市電梅津線、この区間専用の514形が折り返し停車中のところを、戦後生まれの100形が通り過ぎる。梅津車庫前の過渡期の貴重な写真だ。

 市電が走った街 京都を歩く トロバス編③」への11件のフィードバック

  1. お尋ねしますが、最後の写真は梅津段町ではないでしょうか?
    昔の話で記憶も定かでなく、自信がありませんが後ろの塀は段町だった気がします。また市電が終端になっているのも梅津車庫より段町ではないかと思う根拠です。間違っていたら許してください。

    • 1945年(昭和20年)に開業した市電梅津線の終点は梅津で、これは後に高畝町と改称されています。この写真は梅津車庫ではなく高畝町ではないでしょうか。現在のバス停では梅津段町の一つ東、日新電機前になると思うのですが。間違っていたらごめんなさい。

      • ありがとうございます。
        正確な停留所名は分かりませんが、段町の東に左方向へ分岐する道があり、直進する四条通はここから狭くなります。この地点で市電は終点になり、トロバスは転回していたと記憶しています。段町の交差点より200mほど東になりますから高畝町(たかせちょう)になるのかもしれません。

  2.  トロバスの写真を懐かしく拝見しています。廃止が目前に迫った土曜日(たぶん9月27日と思います)のこと、学校から帰ると母がトロバスに乗りに行こうと誘ってくれ、四条大宮から松尾橋まで往復したことがありました。それまではトロバスに縁が無く、市電の中から見かけることはあっても乗った体験はありませんでした。あとにも先にもこの日が一度きりの乗車でしたが、当時の私に写真を撮るという知恵はなく、我が家にトロバスの写真は一枚もありません。当時の新聞の切り抜きと、母が買ってくれた記念乗車券が手許にあるだけで、車窓から見たであろう沿線風景も、トロバスの車内がどんな様子だったのかも覚えていません。終点の松尾橋まで乗ったものの、辺りには見るべきものが何もなく、そのまま折り返しのトロバスに乗って帰りました。市電が全廃された頃、京都市交通局の「83年の歩み さよなら京都市電」を買い、あの日乗ったトロバスが300形と初めて知りました。
     市電梅津線の存在も前述の本を見て知った始末で、市電の歴史や車輌に関して何の知識もありませんでした。2~3年ほど前から変なモンに興味を持ち、古書のイベントや鉄道古書を扱う店にせっせと足を運び、古い「鉄道ピクトリアル」や「鉄道ファン」などを買い漁っています。たまたまトロバスの記事が載った「鉄道ピクトリアル」271号を買っており、開業年月日や停留所間の距離を知ることができました。主要停車場吊架線図と題した図面が出ていて、段町には米手さんのコメント通りの道路配置と、トロバス転回のための架線が描いてあります。さて、この場所は現在のどの辺になるのやろ? 「近代京都オーバーレイマップ」という、現在と過去の地図を重ねて見ることができる便利なサイトがあり、昭和28年(都市計画)に重ねて見ました。米手さんがおっしゃる通り、四条通から南へ分岐して梅津街道に合流する道は今も残っていて、南側には日新電機の工場敷地があります。昭和28年との比較では工場内の建屋こそ変わっていますが、市電の電停やトロバスの転回場の位置はピッタリ一致します。6枚目の写真をよく見ると、傘をさした人物とトロバスの間にバス停の標識のようなものが確認できます。勘違いかもしれませんが、それらしくも見えてきて、トロバスの終点のようにも思えます。
     京都新聞社の「思い出のアルバム 京都市電物語」に、6枚目の写真と同じ場所のトロバス延伸前の写真が載っています。日新電機工場内の建屋は少し変化が見られますが、塀の様子や電柱の位置は変わりません。
     正確な停留所の名前は分かりませんが、手持ちの書籍には「梅津」あるいは「梅津段町」と書かれています。昭和28年の地図に停留所の名前は書かれていませんが、「乙訓の老人の甥」さんがおっしゃる「日新電機前」バス停に重なります。「ピク」271号には『西大路四条-高畝町2.1kmをトロバス営業に切り替えた』の記述があり、判断に悩むところです。

    • ありがとうございます。
      あの塀が「日新電機」の工場だったと思い出しました。
      停留所名はよく変わりますので、さほど問題ではありません。私の記憶も間違っていなかったので『ボケ』には少し時間がありそうです。

  3. 京都では東山区や伏見区に住んでいましたので、四条大宮とか梅津という西の方にはあまり縁がなく、たまに豊中の親戚に行く際に四条大宮の地下から新京阪に乗る前に転回中のトロバスを見た程度です。また四条大宮の変則的な交差点には市電の架線とともに壬生車庫につながるトロバスの架空線がにぎやかだったように思います。さて最後の梅津段町?の514号の貴重な写真に釘付けになりました。一つはスライド式?のステップです。それほど1段目のステップが高いわけでもないのに、このようなステップが付いていたのは知りませんでした。もう一つはZパンタです。私が撮っている514型はすべてZパンタではなく、まっすぐなビューゲルだからです。Zパンタの514を初めて見ました。晩年の514号の写真を添付しておきます。昭和44年6月9日 錦林車庫前の20号系統で活躍中の514号です。

  4. 西村雅幸 様

    トロバスは小生に取って門外漢ですが、市電には少々縁があります。
    貴殿の仰るZパンタには小生も目を引かれましたが、スライドステップについては気付かなかったので『?』です。
    写真を『鑑定』してみましたが小生の勉強不足もあって判然としません。
    市電には床のドア部に切り込みが有って階段付きの構造が見えますが、仰せのスライドステップとは、阪神国道線の折り畳みステップのような特殊な装置なのでしょうか?
    ご教示頂ければ幸甚です。

  5.  Zパンタには気付きませんでした。撮影場所の特定に夢中になり、肝心の電車とトロバスに注意していませんでした。もっと注意深く写真を見ないといけませんね。いろいろな本やネットで514形の画像を探しましたが、他の車両は全てビューゲルを付けており、Zパンタは514だけだったのかもしれません。また、514も時期によって集電装置が異なり、昭和27年頃はポール、昭和41年ではビューゲルを付けています。
     ステップのように見えるのは地面のかさ上げで、上部には敷石のようなものが置かれていたのではないかと考えます。安全地帯がありませんので、地面を少し高くして乗降が楽に行えるようにしたのではないでしょうか? 「83年の歩み さよなら京都市電」に電車の向こう側から撮った写真が載っていて、敷石のようなものが二つ確認できます。514の右側に見える白い物体の正体は、この敷石ではないでしょうか?
     514の方向幕をよく見ると、二文字の漢字が書いてあるようで、「梅津」のように思えます。「RMライブラリー」118号に同じ場所で撮影された写真があり、方向幕には「梅津」とあります。しかし、説明では「段町」とされており、なんともややこしいことです。この写真は南側から撮影されていて、乗降口付近のステップは見当たらないようです。
     「RMライブラリー」117号には、例の三差路手前で転回中のトロバスの写真が載っていて、バス停にはコート姿の乗客が見えます。標識にはトロバス乗り場の表示はありますが、停留所名は見えません。説明では「梅津段町」とされ、また、混乱してしまいます。

  6. 確かにZパンタですね。写真では気が付きませんでした。通称514型にはかつて通学で随分お世話になったり見かけたりしましたが、Zパンは見た記憶がありません。時期は不明ながらおそらく昭和30~31年頃に大宮五条で800型(900?)だったかのZパンを初めて目撃した記憶があります。今回514のZパンを知り、あくまで推論ですが、ひょっとして各型式でZパンの試用テストをしていたということは考えられませんでしょうか。今まで各形式でテストをするなどは必要ないと思っていましたが、ついついそう考えたくなります。ご存知の方が居られましたらお教え下さい。
    さてステップか敷石かと議論になっていますが、これらについては全く知見はありません。514型の特徴で憶えているのはとにかく小型だったということと、扉が二重引戸だったくらいで、ステップの記憶はありませんね。数は多くないものの、梅津線で目撃した電車が全て514型であったという小生の経験からして、仮に敷石だとすると、停車位置が同一なので乗降用としてこの場所に置かれていたことは十分に考えられると思います。
    ところで通学で利用した時期の514型は全車壬生車庫の配置で、時折壬生の代表系統であり最も混雑する①系統にも入っていました。これが来ると必ずといっていいほど積み残しが出て授業に遅れるので、おとなしい小生も必死になって潜り込みました。だいたい800か900が運用されることが多く、それでも混み合ってはいましたが、輸送力としては丁度くらいでした。たまに大型の1000が来れば楽勝で、混みはするものの比較的楽でした。

  7. ちょっと出掛けている間に、多くの皆さまからコメントを頂戴し、ありがとうございます。とくに、乙訓老人の甥さま、紫野高鉄研OBさま、河さまと、外部からもいただき、感謝いたします。論議の発端になった、最後の写真の撮影場所を、私のほうで「昭和33年ごろの梅津車庫前」と記したのが間違いでした。まだ「梅津車庫前」の停留場名はありませんので、「昭和33年ごろの梅津(のちの高畝町)」とすべきでした。背後の建物は、日新電機ですね。紫野高鉄研OBさまが最後の記念乗車されたのが、最後の土曜日と記されていますが、ここに上げた写真は、その最後の土曜日に撮ったものです。京都市電に関する、さまざまな書物を調べておられ感心しました。

  8. この記事が発表されてからのコメントで恐縮ですが、いつも楽しく拝見させて頂いております。
    市電514号と無軌条電車100型の試運転車が並んでいるのは「梅津」電停です。これはちょうど四条通の道幅が狭くなる、現在の「梅津段町」バス停の東方に位置します。
    トロバスが松尾橋に延長した際に、「梅津」電停は廃止され、この東方に「高畝町」電停と西方に「段町」電停を設置しています。「段町」は現在の市バス「梅津段町」バス停です。
    それと、514号がZパンタを付けているのは、当時試運転をしていたトロバスと同じところを走る梅津線での運用をするためで、ビューゲルですと折り返し時に架線を押し上げてしまうからだと聞きましたが、そのようなことを記述している文献がないので、是非とも記録しておかなければならないことだと思います。

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