駅撮り一時間 -記録が記憶になる- 〈1〉

秋田駅 1968(昭和43)年9月15日の記録
「駅」は、旅の出発点であり、鉄道撮影の原点でもありました。鉄道少年だった頃、乗客からの冷たい視線を背中に感じながら、恥ずかしそうに撮影した経験は誰でもあるはずです。長じて歳を重ねると、カネと時間を駆使して、駅からウンと離れたお立ち台で高級カメラと大型三脚を使って一日一本のネタ列車を追うようになります。それどころか、最近は、鉄道すら利用しない鉄道愛好家が多いと聞きます。駅から列車に乗り、鉄道に貢献してこその鉄道愛好家だと思うのは、年寄りのひがみでしょうか。

私は、昔から旅行した際、乗換時間を利用して駅に出入りする列車を撮ってきました。効率良く撮影するため、撮影用に特製の時刻表を自作したこともありました。駅そのものが撮影の目的地だったのです。それは車両の記録が主目的で、叙情の欠片もない、堅い堅い写真ですが、年月が経つと、貴重な時代の生き証人になって来ます。まさに“記録が記憶になる”です。これは、北海道へ行った際の帰りで、奥羽本線の普通列車で秋田に到着、羽越線経由の上野行き「羽黒」に乗り換えるまでの約2時間の記録です。

乗車列車の津軽新城発米沢行き442レが15時25分、秋田に到着、牽引機はD51548〔弘〕からC5768〔米〕に交替した。発駅の津軽新城とは聞き慣れない駅だが、この日は、東北本線青森電化の直前で、青森駅構内の工事のため丸一日、全列車が青森の発着を運休、東北本線は隣駅の浦町、奥羽本線はこの津軽新城から列車を特発し、青森からはバス連絡だった。


秋田駅は、奥羽本線の中枢駅であり、羽越本線と追分から男鹿線を分岐していた。撮影した昭和43年9月は、まだ電化が秋田まで到達しておらず、列車はほとんどが蒸機牽引で、DLすら少数だった。駅舎は昭和36年に民衆駅となり、3面5線と切欠きホームがあった。裏手には機関区、客車区もあり、地方の中枢駅の典型的なスタイルだった。さらにその裏手は、見渡す限りの田畑が続いていた。一角には営林局もあり、かつては森林鉄道がここに集中していた。

昭和42年10月号時刻表地図 男鹿線がまだ船川線になっている。

 

ホームから上掲と同じ442レを見る。C57は形式入りプレートだが、皿付き、予備灯の東北スタイルだ。右手には機関区、客車区がある。線路を横断するのは区の職員だろう。今なら、職員と言えども私服で線路横断すると、厳しい非難を浴びるだろうが、当時は日常の光景だった。
C11 144〔秋〕の牽く男鹿線の貨物列車が入線、回送の客車も連結している。男鹿線では、石油が採掘されるなど、ローカル線にしては貨物列車が多かった。
上野発青森行き普通421レが、上野からひと晩走り続けて、ようやく秋田に到着した。この頃、奥羽本線には、上野~青森の普通列車421レ、422レが1往復あった。たとえ普通に乗り続けて青森に行くにしても、東北本線の普通に乗る方が早いから、この列車に通し客はまず無かったと思われる。
その421レを牽くC61 6〔青〕が客車13両を従えて発車する。C61は当時、青森区に13両配置だったが、まもなくの東北本線青森~盛岡電化で減少する。
こちらは羽越本線、秋田発鼠ヶ関行き842レが発車待ち、黒煙を上げるのは、C5781〔酒〕。鼠ヶ関は山形県最南端の駅で、秋鉄局と新鉄局の境でもあり、始終発とする列車が多かった。
続いて入線したのが、上野発羽越本線経由の青森行き1821レ、C57 35〔酒〕の牽引、先ほどの奥羽本線の上野発鈍行より、さらに遠回りして、青森へ向かう列車だ。酒田のカマなので、回転式集煙装置を付けている。
5番ホームからは、秋田発横手行き2046レがC57 183〔米〕に牽かれて発車待ち、このように、C57牽引の列車が多く、C57はすべて初めて写す機号だった。これでC57の撮影リストが増えて、大満足だった。
蒸機ばかりの黒々した駅構内に、ひときわ眩しい82系DC特急が到着した。上野発秋田行き「第一つばさ」だ。36-10改正での朝の8時10分、奥羽本線の「つばさ」と羽越本線の「白鳥」が同時発車した光景は当時有名な光景だったが、この頃は、時刻変更されて、同時発車はなかった。また「つばさ」は43-10改正で、「はつかり」のキハ81系に置き換えられるので、82系「つばさ」は、あと10日余りだ。
1番ホームにD51 457〔秋〕の牽く酒田発男鹿行き1137レが到着する。このD51、煙突はギースル式になっている。以前の羽越本線「笹川流れ」でも紹介したが、秋田区には数両のギースル式煙突のD51がいた。羽越本線でテストされたが、大した効果も無かったようで、これ以上の改造機はなかった。
上記の1137レは、秋田をスルーして男鹿線に入る珍しい列車、D51は男鹿線に入線出来ないから、C11 144〔秋〕に交替、列番も1137レに変わる。なお男鹿線は、この年の3月まで船川線だった。終点の船川が、男鹿に改称されたため、線名も男鹿線になった。手前は切欠きの1番ホーム、男鹿線のDCが発着する。
発車待ちの秋田発酒田行き844レ、機はC57 35〔酒〕で、見たことがあるなと思ったら、先ほど1821レを牽いて秋田に着いたばかりの牽引機だ。蒸機と言えど、貴重な戦力、効率的な運用がされていた。木造の跨線橋もよく分かる。
秋田発大館行きの639レ、17時台になり、夕方のラッシュ時を迎えて、列車の出入りも盛んになって来る。
青森発院内行き444レがD51 705〔大〕に牽かれて到着、これで撮影を切り上げた。2時間足らずの間に、これだけの列車の出入りがあった。43-10ダイヤ改正の直前の地方の要衝駅、鉄道全盛時代ならではの発着シーンだった。

 駅撮り一時間 -記録が記憶になる- 〈1〉」への9件のフィードバック

  1. 総本家青信号特派員さま
    43.10改正前に青森でそんな代行輸送が行われていたとは全く知りませんでした。確かに青森構内は東北本線や奥羽本線という大幹線と津軽線・東北奥羽連絡線まであって、青森操や航送線まで含めると相当複雑な線形で、かなりの大規模工事であったことは容易に想像できます。また野内までの浦町・浪打回りの旧線が現在の新線に切替えられたのも確かこの時だったはずで、だとすれば長時間の完全運休というのは、電化工事そのものより電化に伴う新線切替や信号関係工事のためではなかったかと思います。
    東北本線は43.10改正の目玉でしたからね。時刻表を手にしたとき583系や485系の特急「はつかり」が以前より2時間もスピードアップされたことに驚愕した覚えがあります。当時は今と違いどんな列車が登場するかと期待して、改正時刻表を待ち望んでいたものでした。
    秋田駅のSL群も当時は当たり前の風景だったはずですが、今となっては驚きのシ-ンに見えてきます。2046レ院内行の写真を見たときに、やけに荷物車の多い列車だと思ったらキャプションに2046レとあり、ああそういえばそんな列車があったなあと懐かしく拝見しました。荷物レの列車番号で客扱いするのは北海道にはありましたが本州では珍しく、東北本線と日豊線くらいではなかったかと思います。貨物レに客車を繋いだのはあちこちにありましたが。

    • 1900生さま
      早速のコメントをいただき、ありがとうございます。この日の青森駅は、全列車運休して、代行バス連絡でした。電化工事は、同年の8月までに完工しており、電機・電車の試運転を行っていましたから、電化工事そのものではなく、電化に伴う、構内配線の改良工事だったと思います。それぞれの写真もよく見ていただいています。2046レは行先が横手で荷物列車主体としては中途半端と思い、改めて時刻表で確認すると、荷物列車の欄にも2046レがあり、福島まで行くことが分かりました。つまり、ラッシュ時のため、秋田発福島行きの荷物列車に、横手まで客車を併結し、旅客扱いを行ったものと理解しました。

  2. 総本家青信号特派員様
    秋田駅の懐かしい記録をありがとうございます。私も高校生のとき(昭和40年8月)にM君と東北を巡りました。上野から夜行の臨時急行「男鹿」で揺られ揺られて早朝秋田に到着したことを思い出します。今なら上野から秋田新幹線で4時間弱ですが、板谷峠をスイッチバックで越えて、米沢、山形、新庄、横手と秋田は遠かったものです。この時の一つの目的が「つばさ」と「白鳥」の同時発車を撮ることでしたが、幅広いホームをはさんでの構図でパッとしないカットしか撮れませんでした。その同時発車を待つまでの間に、やはり船川線のC11やC57の客レ、D51の貨物などを駅撮りしています。それはそれで良いのですが、改札を出ずにずっと構内にいたのか、なぜ駅前で秋田市電を撮っておかなかったのかと後悔しました。早朝秋田駅に到着した臨時急行「男鹿」のC57159が朝日を浴びてきれいだったのが今も印象的です。寝台や食堂車もないハザとスロフ1両の臨時急行ですが、客車列車の先頭に立つC57は誇らしげで輝いていました。

    • 西村様
      コメント、ありがとうございます。昭和40年にM君と行かれているのですか、私の写真は昭和43年ですから、3年の違いは大きいです。昭和43年では秋田市電もありませんでしたし、「白鳥」「つばさ」の同時発車もありませんでした。C57の「男鹿」も順光線できれいですね。当時の秋田駅の様子で、驚いたのは、文にも書きましたが、駅裏の東側には全く人家がなく、一面の田圃だったことですが、私は全く記憶がありません。ここに、機関車の転向をする三角線もあったそうですが、覚えておられますか。私には記憶がありません。

      • 特派員殿
        高校生の頃の情報源は「ファン」と「ピク」だけでした。小遣いの範囲では毎号買うのは難しく、限られた情報だけで旅に出ていたように思います。それだけに見るもの聞くものすべて新鮮だったように思います。秋田や青森では聞こえてくる周辺の会話が外国に来たような感覚だったりして、日本も広いナーと実感しましたね。秋田に三角線があったことは初耳です。均周で毎晩夜行で移動しながら、旅ができたあの頃がウソのようです。

        • 西村雅幸さま
          確かに全てが新鮮で驚き(なにも驚かなくていいのに)の連続でした。高校1年で初めて長旅に出た時は親から旅館への宿泊許可がおりず、山陰~舞鶴~小浜~北陸~大糸~篠ノ井~飯山~上越~信越~小海~中央~飯田~東海道と、夜行を利用して一筆書きルートで信州を一周、趣あるローカル線の初乗りをしました。その時は「時刻表通りに動いている!」という感動にも似た感情だったことを憶えています。当たり前のことなのですが、初体験というのはことほど左様に強烈な印象に感じられますね。

        • 三角線ですが、戦争中、敵機から転車台を爆撃されて、機関車の転向が出来なくなった場合に備えて、各地の主要機関区には、三角線(デルタ線)を造りました。近畿では、米原に2ヵ所あったことが、戦後米軍が撮った航空写真から確認されています。戦後まもなく各地の三角線は姿を消しますが、秋田については、ピクトリアル638号に鮮明な写真が載っていましたので、よく覚えています。この三角線は、私の所属する趣味団体の方が、米軍の航空写真を丹念に調べて、本州、九州の主要機関区にあったことが分かりました。いまも道路跡として残っているようです。

  3. 総本家青信号特派員様
    いろいろな切り口による投稿にいつも感心し、また、関心して見ております。列車の接続が長いとうんざりするものですが、それを逆手に列車や駅を記録するのは賢明ですね。最近は接続に時間がある場合は駅前の路面電車を撮ったりすることもあります。豊橋、岡山などでよく実行しております。数々の蒸機列車を見ていますと秋田駅も当時は東北の重要拠点のひとつであったことは想像できますが、それにしてもよく走り回って撮られたことと思います。手作り特別時刻表が役に立ったことと思います。C57の撮影機数が増えたよろこびの気持ちが伝わってきます。私は秋田は縁のない所で街中は全く知りませんが最近駅前で泊まった時は閑散とした感じがしました。統計調査によりますと秋田県は日本で一番人口減少率が高いそうです。寂しい話をしましたが酒田発の船川(男鹿)行き列車は大変珍しく思いました。当時の時刻表を見ると横手発の客車列車もあったようですね。参考に最近の男鹿線の車両として昨年9月9日終点の手前の羽立で撮った新型車両1133M男鹿行EV-E801-1を添付させていただきました。

    • 準特急さま
      コメント、ありがとうございます。デジ青の切り口については、準特急さんの賜物と感謝しています。“テーマなんていくらでもあるんや”のお考えを体得したお蔭です。たしかに最近は駅撮りしてもそれほど面白くありませんから、私も駅前の街歩きのほうに傾注しています。そう考えますと、最近多い、便利すぎる乗り換えは、かえって楽しみを奪いますね。30分から1時間の乗り換え時間がちょうどいいです。男鹿線は、いまこんな列車が走っているのですが。実は、私は男鹿線には乗ったことがありません。新型DCは、形式名が全然覚えられません。

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