駅撮り一時間 -記録が記憶になる- 〈5〉

昭和42年4月3日 佐世保

少し前に九州を回ってきました。JR九州の車両はすっかり様変わりしてしまい、興味が湧きません。もっぱら、かつての撮影地を再訪問することにしました。何ヵ所か訪れましたが、今回、採り上げた佐世保は、ちょうど50年ぶりの訪問となりました。

50年前の佐世保で興味深かったのは、特急・急行列車の運転でした。手前の早岐で進行が逆になるため牽引機の機回しとなるところですが、早岐~佐世保間はわずか8.9キロ、また佐世保駅は狭くて機回しの余裕もないため、早岐に着いた列車の後部に別の機関車を付け、プッシュプルで佐世保へ向かいました。佐世保発はこの逆の編成となりました。特急・急行でも蒸機が先頭に立ったり、車両基地が早岐にあるため各種の回送列車が設定されたと興味深い駅でした。
蒸機が先頭となる特急・急行の代表は、何と言っても「さくら」だろう。本来はDD51が先頭だが、早岐~佐世保ではC11が先頭に立った。

佐世保に向かう長距離列車は、昭和42年時刻表で見ると、東京から特急「さくら」、急行「西海」、京都・大阪から特急「みどり」、急行「平戸」が直通しており、広島・博多からも直通急行が多数走っていた。今よりも、駅としての格がウンと高かったような感じだった。
▲昭和42年3月時刻表、佐世保~早岐の一部、長崎行きの夜行列車を受けて、4時台から列車があるのも興味深い。昭和44年の佐世保駅全景、C57 155〔早〕牽引の佐世保発諫早行き841レ、駅は、三面六線構造で、海側に側線が2、3本あった。左は現在の駅構内、平成13年に高架化されているので、定点撮影も成り立たないが、方向をほぼ合わせてみた。現在も三面六線のゆとりのある駅構内で、1・2番線の端は、松浦鉄道のホームになっている。東京行き「さくら」が入構するシーン。昼間、早岐で整備を受けた「さくら」編成は、DD51+20系+C11で、夕方、佐世保へ回送され、ホームに据え付けされる。右は、現在の同方向。

 

 

回送された「さくら」は、1番ホームに据え付けされ、東京行きとなる。上りがC11の正向となり、ヘッドマークがあれば、さらに絵になるはずで、事実、最初に鉄道雑誌に紹介された時は、ヘッドマークを付けていたが、これは演出で、通常は付かなかった。次位は電源車マヤ20。右は、呉発佐世保行き急行「出島」で、かつての軍港同士を結ぶ列車だった。急行列車も、同様の運用だった。こちらはハチロクが先頭だった。大阪行き「西海1号」(43年10月改正で大阪行き急行は「平戸」から「西海」に変更)、58648〔早〕+客車+DD51 573〔鳥〕で早岐へ向けて発車していく(昭和44年)。佐世保駅駅舎、平成13年に高架化された。佐世保は、長崎県第二の都市だが、乗降客は一日4千人程度で、長崎、諫早に次いで、県内3位と言う。

もとの松浦線が第三セクターに移管されたため、駅名標の次駅表示も片側のみ。▲▲もとは平戸口が最西端の駅だったが、現在では「JR最西端」の表示を出している。

1・2番ホームの端に松浦鉄道の切欠きホームがあり、DCが発車を待っていた。駅の西側は、すぐ湾が入り込んでいて、以前は雑然とした風景だったが、50年後降りてみると、きれいに整備されて、公園となっていた。

佐世保へ行って初めて分かったことだが、このたびの3月のダイヤ改正から、佐世保~早岐では、乗車券のみで特急の自由席に乗車できるようになった。佐世保発の特急は日中一時間に1、2本は運転されている。代わって、従来、佐世保始発で肥前山口方面に運転されていた普通列車は、佐世保~早岐の運転を止めて、早岐折り返しとなった。結局、早岐~佐世保では、普通を止める代わりに特急に乗れるようになり、全体の運転本数は変わらないようにして、車両全体の走行距離は抑えるという合理化が行われた。

 

 

 駅撮り一時間 -記録が記憶になる- 〈5〉」への6件のフィードバック

  1. 今昔の比較は田舎(失礼!『地方』と言うべき?)へ行くほど『浦島太郎』状態ですね。
    その時代、日本中が列島改造論に踊り、特に田舎では人々は補助金や助成金を当てにしてタカリに似た『何でもかんでも大都会と同様』に成りたがったものです。

    不幸な事に田舎を知らず、当時未だ若かった私にはタカリを苦々しく思った記憶があります。

    さて、C11と『さくら』や、構内機としか思っていなかったハチロクが営業線で牽引する姿は目から鱗でした。

    そうそう『早岐』。 
    『門ハイ』でしたね。その頃『門ハイ』って何処?とアチコチ調べたのを思い出しました。

  2. 河さま
    「日本列島改造論」を唱えた方が、生誕百年を迎えたそうで、マスコミにもよく登場しますね。私の思い出は、そのもっと前の出来事ですから、歳を取ったものです。C11「さくら」は、当時のファン誌で大々的に紹介されて話題になりました。それを書いた方は、その後、別の鉄道雑誌の編集長になられて、もう故人の方ですが、記事には「さくら」のヘッドマークがC11に付いており、それに釣られて行ったのですが、行ってみると、写真のようにマークは付いていません。区で聞くと、取材用に特別に付けたとのことで、記事には、いっさいそのことに触れられておらず、その編集長を恨んだものでした。

  3. それはジャーナル誌の竹島紀元さんですね。何でもSLの大家だったようで・・・。
    それは、いわゆる『やらせ』だったんでしょうかね。
    大家でしたから国鉄にはコネが大有りだったでしょうし、トレインマークの取り付け位は朝飯前? でも、『やらせ』はちょっと・・・。
    この件はそんなに有名でしたか。
    電車屋だった小生の事、スル―してしまったんでしょう。
    そして、今頃になって貴殿のレポートで感嘆している訳で・・・。

    • 河さま
      ご返信、ありがとうございます。そうですね、竹島紀元さんでした。九州のご出身ですから、国鉄にも知己が多かったようで、“やらせ”も可能だったのでしょう。編集者時代は、その独自の視点から、いろいろと軋轢があったようですが、一度だけ会って食事をしたことがあります。たいへん穏やかで温厚な方で、肉が大嫌いで、お酒が大好きな方でした。今回の写真は、実はだいぶ前のデジ青に載せたものでした。載せた私ですら、もう覚えていないことで、時が経れば、また載せる価値があると勝手に判断して載せました。

  4. しばらく御無沙汰しておりましたが、興味深いコメントを見つけたのでお邪魔いたします。調べ物をするため、たまたま手元に置いていた「鉄道ファン」134号に、『さくら』のヘッドマークを付けたC11 194のカラー写真が載っていました。撮影日の記入はありませんが早岐機関区での撮影で、北九州在住のお医者さんの名前があります。真偽のほどは知る由もありませんが、これも『やらせ』だったのでしょうか? この雑誌が発売された昭和47年頃、純真無垢な少年だった私は、この写真を何度も見て憧れていました。そんなウラがあったとは、考えも及びませんでした。そういえば彼の編集長さんとお医者さんとは同じ穴のムジナ、いや、お仲間だったのかもしれませんね。
    つまらないことでお邪魔しました。

  5. 紫の1863さま
    再びのコメント、ありがとうございます。「鉄道ファン」134号、確認しました。炭庫側に「さくら」ヘッドマークを掲げたC11が載っていました。撮影者の北九州市の産婦人科のお医者さんの名前も懐かしかったです。このお医者さんとは本の出版でお世話になった方で、何度も小倉まで行って、お気に入りのレストランで何時間も打ち合わせしたことがありました。仕事柄、遠方へは行けないため、九州に限定して、ずっと記録を続けられてきました。面倒見のいい方で、九州の鉄道趣味界の先達として、いまも慕う方が多く、毎年、この方を偲ぶ、団体貸切列車が、平成筑豊鉄道で走っています。さて、C11「さくら」ですが、最初は、「鉄道ファン」の58号に初めて載っています。1頁大に「さくら」ヘッドマークのC11正面が載っていて衝撃を受け、その翌年には、佐世保、早岐へ行って、初めてカラクリが分かりました。記事を見ると、最後に「協力:早岐機関区」とあり、こんな演出があったとは、純真無垢な時代、全く知りませんでした。

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