宮崎繁幹様、
ご返答が遅れましたことをお許しください。
また、普段より当会の会員がご懇意にして頂いているとのこと、心よりお礼を申し上げると共に、今後とも東京在住の会員との交流、ご指導をお願い致します。
さて、私は26日から27日まで後輩諸君による、研修旅行と称する“シゴキ合宿”に参加しておりました。そのため、帰京後も疲労困憊してコメントを拝見するのが遅れてしまいました。
宮崎様からのコメントは
《この写真は、亡くなった小生の友人、山本明弘さんの撮影です。彼は、写真は見れば判るだろぉ~、と云う調子でした。その為、データが全然ありません。「撮影日は?」と聞いたら、セミ判密着は、昭和30年前後、35ミリ版になったのは、33年位からだ、てな具合でした。従い京都市電の写真は、セミ判なので、昭和30年頃です。
押しかけで恐縮ながら、地元の同志社の皆様に場所が御判りなら、教えて頂きますよう。どうぞ、宜しく。》というものでした。
さて、ご投稿頂いたコメント欄では写真が拡大できないため、別途画像処理しまして分析しました。ご覧ください。
まず、車輌は604と読めます。600型の配属表がないので記憶だけですが、604は九条車庫所属ではなかったかと思います。後ろに見えるのは石炭のホッパーかと思われるのと、ガントリークレーンらしい物が見えます。さらに国鉄線路から約90°でそれていきます。市電が国鉄のそばを通るのは、京都駅の南側と二条駅の前です。この条件に合うのは京都駅の南側、前回のお写真の市電がもう少し進んだ先で、高倉陸橋を降りた辺りではないかと思います。
参考に私が東海道線の電化完成直後に撮った写真をご覧ください。
クレーンの形が同じように見えるのでこの付近ではないでしょうか。左に見える鉄橋が高倉陸橋、中央に走っているのが伏見線の市電です。市電は右へ行くほど地表に降りてきて、南(左)へ直角に曲がり竹田街道を伏見へと南下します。
もう一枚ご覧ください。
▼上の写真より数年の後、京都駅の南側は新幹線の駅が出来ることになり整備が始まりました。大きな石炭庫や転車台は撤去されて、代わりにELの車庫が出来ています。
写真は八条口の東口辺りから東を見ています。大きな鉄塔の右側に伏見線の線路があります。
▼▼その中央部を拡大しました。
いかがでしょうか?私の推察では、あの写真は電化以前に、現在の八条口東側の「八条竹田街道」交差点から東北東の方角に撮されたのではないかと思います。
次の一枚は
これは簡単です。
有名なレストラン、菊水です。現在は「名誉冠」のネオン看板はなくなりましたがビルは健在です。菊水の正面が「南座」で、平面交差している線路は京阪電車です。当時は地上にあり、市電と平面交差していました。
答えは「四条京阪」です。
ご覧の方で「ちがう!ここやで!」と言うご意見があればご遠慮なくコメントください。
楽しい写真をありがとうございます。まだまだある、とのことで楽しみにお待ちしております。
米手作市さま
御意!その通りだと確信し断言致します。さすが論理的なご明察の結果、ケチのつけようがない結論です。この後どんな写真が紹介されるのか大いに楽しみですね。
個人的には久しぶりに⑰系統の写真に懐かしさを覚えました。小学1年生の2・3学期に故あって九条車庫前起終点で西大路九条~西大路七条~七条大宮~四条大宮~ギオン(なぜか方向幕には漢字の「祇園」はなかったはずで、「ぎおん」或いは「ギオン」と表示していました。後に東山線を通って九条車庫前発着となり、循環系統になりました)間の⑰系統で九条線羅城門前~大宮線島原口の間を通学していました。最短経路は九条大宮での乗り換えるケースですが、なにせ幼少の砌だったことから、時間もかかり本数も少ないものの乗換の無い同系統の利用を親が決めました。通学当初には何度か300型(だったと記憶します。もう200型は消えていたように思います)の単車に出くわして、上下にお辞儀をする単車独特の乗り心地を味わったものでした。⑰系統は比較的空いた系統だったためか600型がよく入っていたようです。余談ですがこの通学では、定期券を忘れて顔パスで降ろしてもらったことや、コントローラーが故障して前面カバーを外したため、ノッチ切替時に内部からアークの火花を吹きながら走ったことなど、いろいろ体験させてもらいました。
先の市電600型の話題の続きになりましたが、また一つ懐かしい市電の想い出に浸れる機会を持てたことに感謝申し上げます。
宮崎繁幹様
冠ビルをバックにした京都市622号の写真は多分四条京阪あたりとは思っていましたが、17系統板の記憶がなく自信がありませんでした。後からそうであると思っていたとは卑怯な論法ですね。京都の話は外来種の私よりやはり米手さん、1900生さん、総本家さん等純粋京都人にお任せします。
準特急さんは東京でもブイブイ言わせてるんですね!
いいお知り合いが多くてうらやましい。私などは「山陰線を完乗したことがない」人や「木次線のスイッチバックは見たこともない」人を連れて年中旅行しております。恵那で分かったのですが小浜線を知らない人がいたので近々乗りに行くことになるでしょう。疲れるワ
宮崎様にはよろしくお伝えください。
米手様には、ご丁寧な考察を頂戴しまして、有難うございました。一枚の写真に市電とEH10が収まる場所があったとは!、ビックリです。また1900生様にも、関連の貴重なお話を頂き、感激です。このような機会がなければ、何時までも単に旧い京都市電の写真と云うままになっていたところです。
思いがけずリクエストまで頂きましたので、引き続き場所不明の600形の写真をお目にかけましょう。今度のは、形式写真としては良いかと思うが、周囲があまり写り込んでいません。どうぞ宜しくお願い致します。
宮崎繁幹さま
貴重かつ懐かしいお写真を拝見させて頂き有難うございます。また小生のあのような体験話にお喜び頂き恐縮です。たまたま京都に生まれ育ち、小1・中学~大学と市電を利用していた小生ですが、なぜか写真を殆ど撮っていませんでした。余りに日常的な乗り物だったためかもしれません。しかし先の体験談のようなことは比較的多くありましたので、専らコメントにてご披露させて頂いております。いささか人様のフンドシで相撲を取るような気がしていましたが、興味を持って頂けることもあるのだと勇気を頂いた思いが致します。
この後の写真に期待するとともに、今後ともクローバー会をよろしくお願い申し上げます。
宮崎様、重ねてありがとうございます。更新改造後の609号は九条車庫の所属です。
撮影場所は簡単です。上の写真をご覧ください。622号の50mほど先にある電停に停車中です。つまり四条京阪停留所東向きです。ビューゲルの右にある三角屋根を上の写真でもご覧いただけます。電停の左にある広場の奥に、加藤登紀子の父親が経営するロシア料理店があります。
まだまだ!ドスコイ!次をお待ちしております。
米手様
レストラン菊水の東側、写真では電停の北側には今も建物がなく、公園?のようになっていると思いますが、かつてそこには四条通りをはさんで「北座」があったと聞いております。いつ北座がなくなったかについては、いまや広島県人の私にはわかりませんので、特派員氏など都に根をおろしておられる方の蘊蓄をお待ちします。かつて五条坂で暮らした私にとって7号系統や17番の青い系統板をなつかしく思い出しています。
西村様、
いま、公園の下に地下駐車場が出来ているので空き地になっているようですよ。北座、祇園乙部、懐かしい響きです。見たことはありませんが・・
米手さまには、斯くも素早く回答を頂き、感謝&驚きです。60年以上前の京都の街を現在のことのように、よく御存じなのですね。もっとも平安京の昔からは、1200年以上の歴史ある京都ですから、60年前などは、つい最近のことかもしrませんが。
それはさておき、「まだまだ!ドスコイ!」とのことですので、横綱・白鳳に立ち向かった遠藤に習い、横綱・米手山に、十両・宮崎が、お相手を仕りましょう。更新前の675号は、良さげな形式写真ですが、場所はトント判りません。
宮崎繁幹様
私は羅城門のオニではありません!
とはいっても古いことが大好きなのは間違いありません。
でも、この写真はお手上げです。
撮影は春か秋、それも街路樹が芽吹いていませんので春ではないかと思われます。窓を開けている事、学生服を着ていること、市電のほぼ真横から日が当たっていることから三月から四月の昼頃、東向きに走行中の675号と仮定しました。675号の所属が分かりませんが、673と676は錦林車庫におりましたのでこれもそう仮定します。さらに左端に見える電柱に車庫前にある出発信号機のような物が付いています。
強引な想像で言いますと、錦林車庫所属の市電が走る系統で、東西の通りに車庫がある地点。となると、九条車庫、烏丸車庫ではないかと思いましたが、ここで気になることを思い出しました。錦林車庫の前は縦の通りですが、少し線路が東へ振っています。そこで錦林車庫で撮った写真を探したところ、似た場所を見つけました。ご覧ください。マンホール、出発信号機、車庫前にあったつり下げ電灯などが似ています。
西村さん、助けて~!
米手様
返信が遅くなりましたが、これは難問で私には手も足もでません。米手様御推理の錦林車庫前が限りなく妥当だと思われます。市電で信号機があったのは各車庫前、京都駅前、元田中の叡電とのクロス部ぐらいしか覚えていませんが、赤や緑の色灯式ではなく、系統番号のランプが点灯するものだったと記憶します。現在の錦林車庫前の様子をグーグルのストリートビューで見てみると、軌道跡は中央分離帯に代わっていますが、ほぼ同じ場所にはマンホールもあり(蓋が当時とは違うようにも見えますが)よく符合します。675号の屋根越しに見える瓦屋根が手掛かりになるかと思ったのですが、現在は歩道沿いはビルになっていて判断できません。米手様の証拠写真で停車中の819号の背後に写っている瓦葺き2階屋は現在はラーメン屋になっていますが屋根や柱は昔のままであることが判りました。いずれにせよ本事案の探索は広島の田舎者ではなく、京都市電の痕跡をくまなく調査され、出版された特派員氏に登場願わねばならないと思いますが・・・。
西村様
ありがとうございます。
そうか、googleがあったのか!
明智小五郎も金田一耕助もシャーロックホームズもgoogleEarthは知らなかったのだ!
写真を貼り忘れました。
上の写真は、この写真よりもう少し右を向いて撮っておられます。つまり中央の銀色の出発信号機の付いた電柱が、左端へ来るまで右を向くと同じ画角かと思います。吊り下げ電灯は切れていますがこの上にあります。
京都府警の科捜研が活躍するテレビは、ときどき見ておりますが、デジ青は、それを凌駕されていますね! 街路樹の芽吹きの有無、日差しの向きから、道路のマンホール、電信柱の出発信号機などなど。米手さまの推理の前には、科捜研の女・沢口靖子など、遠く及びませぬ。お蔭様にて、門前の小僧、不肖、私めも独力で、解説を付すことが出来るようになりました。
▼御覧頂くのは、伏見線を走る更新前の616号が、高倉陸橋を渡り終え、これから右へとカーブを切り、地表へ降りていこうとするところです。
これで山本明弘さんの600形の写真は、おしまいです。泉下の彼も、大満足であろうと思います。ところで600形の写真は、未だあるのですが、続行しても宜しうございますか?
もちろん続行運転!大増発でおねがいします!
ところで“きれいなお姉さん”を凌ぐとの過分なお言葉を頂きましたが、これは当会の暗黒の伝統が生み出した結果なのです。当会では先輩後輩の境はなく、某大学のような先輩によるシゴキやハマリもありません。従って少しでも先輩が過ちをしようモノなら後輩たちがその間違いをたたみかかってあげつらうのが伝統芸であります。現に今し方も前会計のI君からオロ30と31の記述に間違いがあるぞ!と寝かかっているのに電話がありました。従いまして普段から寝首をかかれないように考証には留意しているのです。
でわ、お言葉に甘えまして、続行運転と、マスコンに手を掛けたました。しかし、あまりに700形ばかり続いては、、食傷気味になる乗客の方もいらっしゃるんでは?、と愚考致しました。そこで1900生様から頂いたコメントに、何度か300形に乗車とのお話があったので、2回ばかり300形で御機嫌を伺いたく存じます。この写真には、記録が少し付いていましたが、撮影者は不明の、撮りびと知らずです。万一、デジ青の皆様が撮影された、或いは撮影者を知っとるでぇ~と云うことでしたら、是非ともお知らせ下さい。 さて昭和27年に東寺を行く350号とのことです。1900生様が通学されたのは、この頃でありましょうか。
宮崎繁幹様
200型(木造)、300型(半鋼製)は時代もあって、なかなかいい写真がありません。これは8号系統右回りで、撮影場所は九条大宮西入ル200mぐらい(東寺の南側)で、北東を向いて撮影しています。光線状態、角度共に申し分ありませんが、後ろに写っているステーションワゴンがまた懐かしい!
宮崎繁幹さま
続行発車!嬉しいですね。またまた懐かしい写真を有難うございます。ご紹介下さった⑧系統300型には夏休みの木津川水泳場へ行く際に奈良電東寺駅まで何度か利用したことがあります。ところで昭和27年といえば小生はまだ5歳で、大宮五条近くで市電を見ながら鉄道趣味に目覚めていた頃ですね。この2~3年後に東寺の西方に転居し、前述の⑰号系統での通学が始まりました。九条大宮乗換で五重の塔を南と東から眺めながら通学し始めたのが昭和35年です。下校時の四条大宮電停で登場間もない700型新車に乗りたくて一時間ほど待っていて、帰宅が遅くなって親に叱れたこともありました。続いて700型も拝見させて頂けるようで楽しみにしております。
1900生様の市電に関する思い出を伺うと、小生には縁がなかった京都の電車も近しいものに、感じられるような気が致します。続いて700形?、と思い前投稿を見ると、600ではなく、確かに700と記してある。東京都電の700形は、流線形で方向幕の左右に系統番号表示窓などがあり、京都の600形に似ているのですね。そんなことを考えていたら、ウッカリして700と記してしまったようです。しかし、一旦申し上げた以上、前言を翻すような失礼は致しません。600形を終えましたら、お目にかけましょう。米手様は、古いものがお好きとのことなので、本日は、もう1枚ある300形の古る~い写真を載せておきます。裏に「鐡道趣味社写真部」のスタンプが捺してあるので、宮松金次郎氏の撮影かもしれません。データは付いていませんが、昭和10年頃でしょうか。どこの車庫かも不明。しかし、300形は窓の上縁のカーブや、側引戸の貼り合せの模様など、美しい電車に見せようと云う、設計者の心意気を感じる「作品」だと思わせます。
宮崎繁幹様、1900生様、
600型の話からどんどん広がって行きますが、これがデジ青の醍醐味!でしょうか。
市電の車庫別配属表を探していましたが、乙訓の長老先輩が持っているとのことで送ってくださいます。これがあれば宮崎様の難問にも対応できます。でも、この写真は古すぎますね。ダブルポールの時代はいつまでだったのでしょうか?これを調べてみます。
宮崎繁幹様
304号の撮影場所が分かりました。と言っても正確にではありませんが、推察とお考えください。
300型304号は壬生車庫での撮影ではないかと思われます。
根拠は乙訓の長老から送られてきた1952年発行の「軌道事業略史」京都市交通局編を見ますと、架線の単線化(専門的には架空複線式・架空単線式というらしい)は、終戦直前の昭和20年8月1日着工で、完成が22年11月30日となっています。因みにビューゲル化は昭和27年度から3年計画で30年度完成ですから、ダブルポールが見られたのは遅くとも昭和22年秋までで、ポールが見られたのは昭和30年末頃までと言うことです。
で、この304号ですが、同じく長老が送ってくださった路面電車同好会報への原稿に「昭和21年9月21日現在の車庫別配属表」があり、これによると300型は全車(301~350)が壬生車庫に配属されています。
ダブルポール時代の写真であることから終戦以前の撮影だと思われ、壬生車庫である可能性が高いのです。もう一点、長老の原稿の中に「昭和20年頃、四条通を走る1型(広軌1型)は、デッキに折り戸があるのに烏丸車庫の1型はオープンデッキだった」との記述があります。もう一度写真を見て頂くと左後ろに写る1型のデッキは折り戸が付いていますから烏丸車庫ではないでしょう。
以上の事から撮影場所は壬生車庫で、撮影時期は戦前と推量します。
ついでながら
上方の675号はやはり錦林車庫の所属でした。昭和30年~35年の所属表で錦林車庫となっています。
また、九条通の350号は、300型の最終番号です。
宮崎繁幹さま
いやはやダブルポールの300とは。これは現車を見たことが無いので、凄い!としか言いようがありません。まして戦前の撮影では。一応戦後の生まれですので。いやもうデジ青を開くのが恐ろしいほど楽しみになって参りました。夜も寝られなくなるのではと不安です。700型の誤記は気になさらないで下さい。小生など似たようなことがしょっちゅうですので。とはいえたとえ誤記であるにしても、700の写真をご用意頂けるところがこれまた凄いところだと感じ入ります。プレッシャーをおかけする気は毛頭ありませんが、こうなってくるともっともっととついつい期待してしまいます。
米手作市さま
ビューゲル化の話題がでましたので、また想い出をひとくさり。
あるとき大宮五条を下がったところで市電を見ていたところ、初めてビューゲルを付けた市電を目撃したのです。電車は800型の後期車だったと記憶しますが、時期が不明のため、ビューゲルの話題が載るまではと控えておりました。米手さまの緻密な考証とともについにビューゲル化試験の話題が載りましたのでご披露申し上げます。昭和27年からとのことですから、おそらくその初期に目撃したものだと思われます。前述のように29年の夏には転居していますから、すくなくともそれ以降ということはありえません。それにしても不思議なのは、3年かけて徐々にビューゲル化していったからには、ポール車との混在期間があったはずですが、そのへんの記憶が全く無いのです。大宮五条での初見時のみが記憶にあるのは、当時余程驚いたため強烈な印象として焼き付いたためかもしれませんね。
米手さまの考証はなぞ解きの域を超えて、名探偵ホームズの域に達していると思います。
京都市電600形から始まって、撮影地の謎解き、戦前の300形へと議論風発し、何よりです。私の名前も出していただきながら、何のコメントもせずに失礼しました。さて、戦前の300形、貴重な写真ですね。300形については、以前に、どですかでんさんからも本欄に保存車についての提起があり、いまも301号が、北区にある幼稚園にきれいな状態で保存されていることを報告しました。ところで、宮崎様から、写真の提供者名に「亡くなられた山本明弘さん」とありました。私も同じ名前の方を存じ上げているのですが、もしや?と思っております。
山本明弘さんと知り合ったのは、東京・銀座の松屋デパート裏にあったナカヤマモデルと云う、外国型鉄道模型のお店でした。昭和55(1980)年頃だったかと記憶します。当時は、川崎市の公務員でいらっしゃいました。模型屋は十年ほどで閉店してしまったが、それ以来ずっとお付き合いしました。十数年前、小生は「小田急電車回顧」と云う全4巻の写真集を刊行しましたが、山本さんの作品が、沢山この本には載っています。しかし、最終巻の発行直前に急逝されたのです。鉄道全般に興味を持たれ、最後の頃は海外遠征もされていました。しかし、小生の手元に残されたアルバム数冊を見ますと、私鉄電車が特にお好きだったように、思われます。皆様にお目にかけた京都市電も、その中にあったものです。趣味誌等には、まったく投稿されなかったと思うので、一部とは云え、デジ青に発表の機会をお与え頂けて、本当に良かったと感謝しております。さて、総本家青信号特派員様がご存じの山本さまは、同一人物か、このような情報でご判断がつきましたでしょうか?
宮崎様
さっそくのご返信、ありがとうございます。山本さん、別人でした。私の知っている方は、しばらくお目にかかってなく、“もしや”と思った次第でした。もう一人の山本さんの思い出も聞かせていただき、ありがとうございます。宮崎様とは、昨年の東本願寺前での一献以来、とくに本欄では貴重な情報をいただき、感謝しております。
同名異人で、宜しうございました! 感謝さるべきは、元写真を遺した有名・無名の鉄道ファンの先人の方々です。小生は、それを皆様のご好意により、デジ青に貼らせて頂いているだけです。引き続き、喜んで頂けそうなものを精選してお目に掛けますので、宜しくお願い申し上げます。
米手さまには、いつも乍ら詳しいご説明を頂き有難う存じました。1900生さまの集電装置に関わる回想も、興味深く拝読しております。小生は、亡父が三和鉄軌工業(現・三和テッキ)と云う架線金具やレールボンドの会社の監査役を永くしていたので、架線にも少し関心がございます。そこで600形と架線との関連で、面白い写真があるので、お目に掛けましょう。パンタとポールの両方を搭載した622号です。これは亡くなった国電研究家の吉田明雄様から、頂戴したものです。撮影地しか記してないが、大石橋とのことです。京都市電が、パンタグラフの試験もしたと云うことは、知っておりましたが、写真はあまり見ないように思います。パンタグラフをポール用の架線で、そのまま使うと、分岐部で引っ掛かることがあるため、部分的に集電舟を下げる為のガイドが、付けられているのが、左上の架線に観察できます。
宮崎 繁幹さま
思わず「うっ!」と絶句してしまいました。理由は種々あるのですが、まず京都市電がパンタ試験をしていたことを全く知らなかったこと、従って現車を見たことも当然なかったことに加え、小生的にはパンタグラフは大型電車にこそ似合う(個人の感想です)集電装置という思い込みがあり、地方都市にある路面電車のパンタは小型とはいえ電車の外観上のバランスを損なっていると感じていたため、かの京都市電が地方都市並みに見えたショックも手伝ってのことでした。初めてビューゲルを見た時は驚きでしたが、この写真にはショックを受けました。パンタが採用されなくてよかったと今更ですが胸をなでおろしています。
ところでこの622号の屋根上ですが、ポールが手前側1本しかないように見えます。奥のポールは当然のことながら試験用パンタを設置するため撤去されているように思えます。写真を見た当初は予備にポールを残しているなと早合点しましたが、これでは万一試験中にパンタが故障した場合、進行方向によっては前向きにポールを上げなければならず、相当問題有りのように思われます。まさかこのポールが昔のように奥まで180°回転するとも思えず、よほどパンタに信頼性があったのかもしれません。こういうことを考え出すとオチオチ夜も寝られなくなっても困りますので、このあたりでオシマイにします。
宮崎繁幹様、1900生様、
長老から送られてきた二つの資料、「京都市電あれこれ話・沖中忠順著」と「軌道事業略史・京都市交通局編」にその辺の事情が書かれていますのでご紹介します。
ビューゲル化のところで書きましたが、架空複線式から架空単線式へ変更時に、実は実験期間がありました。略史によると「昭和25年6月から伏見線の京都駅ー中書島、勧進橋ー稲荷、大石橋ー九条車庫、計8.516kmの電車線路の改修を実施し・・」とあり、当該区間で架線の摩耗状況を測定しております。結果は「ポール式に比べてすこぶるよかったので昭和27年度よりビューゲル化工事を決定した」そうです。
また、あれこれ話にも羽村宏先輩の写真が出ていますが、パンタ化についての記述はありませんので両方合わせて読むと概略の想像が付きます。
交通局では架空単線式へ変更に際して、ビューゲルにしようか、パンタにしようかと迷い、双方を載せて試験をしたのではないでしょうか?撮影場所が京都駅と大石橋、どちらもビューゲルのテスト区間です。また、撮影時期も羽村先輩の写真は26年8月です。25年6月以降で27年度以前になります。略史にパンタの記述がないのは効果が無かったのか、コストや手間が大変で、早々にあきらめた可能性があります。
なお、あれこれ話の写真にはキャプションが付いていて「高く付くので不採用になった」「ビューゲル、パンタ付きの電車がポールをつけているのは大石橋ー九条車庫間のため」とあります。しかし、ポールは大石橋ー九条車庫間のためでは無いと思います。略史にはこの間も架線工事をしている旨が記録されているからです。たぶん、非常時用か他線区への乗り入れか車庫内での移動用に使うためではないかと思います。
写真をご覧に入れたいのですが、コピーのため不鮮明で出来ないのが残念です。車輌は622号の他に535号、624号が確認されています。
米手作市さま
貴重な資料のご説明とご解説を頂き有難うございました。資料があるからといっても中々こうまで詳しく説明・解説して頂けるものではないと思いますので、お忙しいなか相当の労力を割いて頂いたに違いないと思っています。前置きはさておき、当時の動きがよく理解できました。特に試験区間については改修工事費を圧縮するために、九条車庫配置の伏見線系統とその入出庫系統に限定したのでしょうね。九条車庫でも他の系統ならかなり広範囲に改修しなければなりませんからね。またポールとビューゲルではトロリー線の摩耗がそんなに違ったのでしょうか。おおよそ予想はつきますが。市電とは集電容量が異なりますが、京福叡山線デオ200型で、夕闇のなかホイールから火花をバチバチ出しながら走っているのを見たものです。そりゃ摩耗も早くなるというものですね。
米手さまには、入念な解説を頂戴し有難う存じます。単に小生が面白いと思っていた写真も、貴重な記録と認識できました。故人曰く「玉磨かざれば光なし」と云うところでしょうか。さて小生の手元にある600形の記録も、あと10枚ほどとなりました。どのような順番で、お目にかけるか、凡庸ではありますが、時系列と致します。「古すぎや~」、「夜も寝られへん」とのお小言をまたも頂戴しそうですが、小生に対する励ましであると、勝手に解釈致します。この広軌1形と並ぶ写真は、宮松金次郎/鐡道趣味社コレクションにあったものです。詳しい撮影データは、当然記録されたと考えますが、今は得られません。行先は「植物園」、経由は「烏丸通」を表示していますので、烏丸庫かと単純に思いましたが、よく判りません。周囲を見ますと相当に、大きな車庫に見えます。時期は、昭和10年頃かと。でわ、謎ときの方を宜しくお願い申し上げます。
オッチョコチョイの小生は、米手さまのように慎重な考証もせず、気分で書いて失敗をすることが、ときどきあります。この(▲)写真が、昭和10年頃に撮影された訳はありませんでした。製造が昭和12年なのですから。早くても12年か、その翌年でしょうか。お詫びして訂正しておきます。これとセットになっている写真があります(▼)。宮松金次郎氏は、折に触れ車内の記録を遺していらっしゃます。ただ困るのは、記録が現在は逸失していて、何が記録されているのか判らないことがあるからです。この写真は、600形であることは間違いありません。但し車番は不明です。可能性としては、上記の615号、または別に撮影されている612号かと思われます。この素朴な運転台に立って、運転士は60キロでぶっ飛ばした、と云う訳ですね!
宮崎繁幹様
またまた、おいしそうな写真をお送り頂きましてありがとうございます。
早速、と言いたいのですが、今し方まで当会会長を“男にする会”で下関から山陰線を全線踏破して帰ってきたばかりです。そして、これは鉄道とは関係ありませんが明後日から海外へ出かけますので、誠に申し訳ございませんが“ごちそう”は帰るまで冷蔵庫で保管させて頂けないでしょうか?勿論その間に次々とお料理を並べて頂いても、それは結構でございます。
それではよろしくお願い致します。
宮崎繁幹様
と、書きましたが、おいしいモノは帰るまで我慢が出来ず、早速ちょうだいいたしました!
このスレッドは伸びすぎましたので新しく続編を作ります。
米手さま
続編として、新しいスレッドを立てて頂けるとのこと、有難う存じます。その折は、小生の名前はスレッド名から、外して頂きますよう。自分で自分の質問に答えるのは、変な感じです! どうぞ宜しく。
失礼しました!早速変更いたします。