片上鉄道キハニ120 1937年10月14日和気 牧野俊介撮影
片上鉄道キハニ120組立図
米手作市氏、畏れ多くも乙訓ご老人までが露払いして下さったからには、黙っているわけに参らず、須磨老人から一言を。この流線形クハ803は加藤車輛製作所1936年8月製、片上鉄道キハニ120が前身である。加藤製としては1か月後の能登鉄道キホハニ2と共に、個性の強い流線形で、運転席窓の庇が特徴だが、車体実幅が2,200mmと狭いのに幕板が広く、屋根も深く、鈍重―スマートとは申しかねる。扉下、荷台にも踏み板を盛大に張り出し、最大幅は2,640mm。50人乗り、機関は戦前私鉄中型車標準のウォーケシャ6SRL、エアブレーキを装着し、手動ワイパーがある。塗装も木部がニス塗り。
1942年に代燃ガス炉設置、1946年には多度津工場で機関を下ろし、台枠を補強して客車化、1948年3月12日手荷物室を撤去しフハ120に。1955年2月ナニワ工機で制御装置を付し和歌山鉄道クハ803に。
これは乙訓ご老人ご撮影のクハ803
和歌山電軌クハ801 ←国鉄キハ5020←芸備鉄道キハ3 日車1929年12月製 本来両ボギー2個機関で製造 一旦口之津鉄道に納品されたがキャンセルされ 日車に出戻って1個機関片ボギーに改造し 新車と称して芸備に納品された代物
和歌山電軌クハ802 ←片上鉄道キハニ102 日車1931年製
なお和歌山鉄道は乙訓のご老人お書きの通り、1941年12月東和歌山-伊太祈曾間を600V電化、1年後大池、さらに1年後貴志と2年かかって全線の電化を果たした。当初はオリジナルのガソリンカーを電車にしたが、淡路鉄道方式ではなく、マトモな電車用の台車(南海のお古)と交換している。半鋼ボギー車ばかりでなく、木製鋼板張り(俗に謂う「偽スチール」あるいは「鉄面皮」)の丸山車輛製2軸車キ101~103のうち、キ103を加藤車輛製作所でボギー化、片側扉を広げたモハニ103なんて代物もあった。芸備鉄道買収の片ボギー車キハ5020にポールとコントローラーを付したクハ801もでっち上げ、これはかなりあとまで健在だった。
和歌山電軌モハ201 ←和歌山鉄道オリジナルのキハニ201 小島栄次郎工業所製とされるのは メーカーたる松井車両製作所が当時手形不渡りを出して銀行取引停止中だったため
敗戦後は江若鉄道が、国鉄キハ41000形式を獲得した代償供出によるキニ1、2(川車)をモハ205、206にし、片上キハニ102をクハ802に、など。これらの旧ガソリンカーの一群は乙訓ご老人が以前この欄に写真を出して御座る。他には旧京浜やら阪急やら阪神やら南海やらのボロ電車をかき集め(いずれも供出だから状態は推して知るべし)るなどしたが、そっちは須磨老人の受持外である。
ともかく東の雄上田丸子電鉄には及ばないまでも、百鬼夜行の旧ガソリンカー天国=西の雄だったのは確かである。小生の撮影は和歌山電気軌道となってからの1959年7月16日で、紀勢本線全通初日を撮影、御坊臨港鉄道、有田鉄道、野上電鉄を撮っての帰路で、和歌山電軌軌道線の2軸単車は終点でまだポール回しをやっていた。
その前日、自宅から山科駅までの間に大雨に遭遇し、傘がなく川にはまった状態で猿股までぬれたまま亀山でステホ、幸い風邪も引かず翌朝は体温で衣服は乾いていた。しかし靴はチャップリンが「黄金狂時代」で、ナプキンをして大真面目な顔で食べ、腹を抱えさせられた靴同様、水を含んでブカブカ・チャプチャプ、軟らかくなり何やら白い粉を吹いていた。確か新宮だったかの機関区構内の靴屋で応急処置をしてもらった記憶がある。
なおモハ205のみは1952年12月28日で、得体の知れない映画用(当然安いが感度も判らない)35mmフィルムだったので、傷だらけである。
モハ205 ←江若鉄道キニ1 川崎車両1931年製 撮影時点和歌山電軌に合併され1か月が経過しているが 社紋は和歌山鉄道のまま
和歌山電軌モハ601 車体は旧阪急
モハ601+クハ802
和歌山鉄道モハ300車体 南海軌道線57を高床化したもの
須磨の大老様、乙訓の長老様、
ありがとうございます。
日本ハムの“ゆうちゃん”とか言う新人が、「僕は持っている・・」といっていましたが、両巨頭の持っておられるものには足元にも及びません。
しかし、おもしろいものですね。クハ801などは“ホントかいな?”と思わず疑いたくなる履歴ですね。いったい小なりといえども鉄道車両が納入後にキャンセルできるモノか、台車を換えて「新車です!お買い得でっせ!」と言って売れるものか?須磨の大老さまをゆめゆめ疑うものではありませんが、ほんまかいな?と思っております。
こんな時代を生きてみたかったと思いました。
昭和初期、日車は単端式ガソリンカーが順調に売れ過ぎ、反動で両運車、ボギー車の開発に遅れをとりました。一気に追いつき追い越すべく、新規設計ボギー車を一挙に7両仕掛けました。それも当時出力の大きいブダやウォーケシャは値段が高く、部品補給困難、修理業者絶対不足などで、日車本店の設計者は、代理店・修理業者に不自由ないフォードAを、1両に2基搭載したのです。その第一号車を、前年2両契約していた口之津鉄道に納品し、日車は早々と広告にも「口ノ津鉄道殿納入」と記載していました。1929年早々のことです。
ところが試運転で2基機関の機械的協調がうまく作動せず、口之津鉄道から未納入車共受領を拒否されてしまいました。口之津は1年後雨宮の2軸60人乗り車を購入し、これは好調でした。
すごすごと引き下がらざるを得なかった日車ですが、同型車2両契約していた芸備鉄道には何とか納品に成功(キハ1、2)。但し営業してみると種々欠陥が露呈し、すぐ戻されてギヤ比、エアタンク容量、冷却機能等を増強するなど、応急措置が必要でした。
口之津キャンセルの2両は、片ボギーに改修し、機関をウォーケシャ6XKに取替え、「新車と称して」芸備鉄道のキハ3、4に納めることが出来ました。和歌山に流れ着いたクハ801はこのキハ3の最後の姿です。台枠の単軸側に(両ボギー時代の)枕梁が残っているとの、先輩の実見記録もあります。キハ4は小湊鉄道のジハ50からハフ50で生涯を終えました。
ところで三木電気鉄道(現神戸電鉄粟生線)が鈴蘭台-広野ゴルフ場間を新規開業した1936年12月28日、電化工事が未完成(逓信省が認可せず)なのに、何としても年内に開業しないと補助金がフイになるという事情があり、芸備鉄道からキハ3、4を借り入れ、無理やりガソリン動力で開業しました。片ボギー車のほうが動輪上重量が大きく、勾配対応もいいとはいえ、何分50‰勾配ですから、青息吐息。時には建設用の蒸気機関車が無認可でこの片ボギー車を牽引したり。1937年4月16日の電化完了まで、何とか持ち堪えたのですが、公式記録からは一切足跡が消されています。
なお口之津キャンセルの一件は不名誉も極まる為、日車にも記録がほぼ残されず、口伝もないのですが、組立図一式にはすべて「1/口ノ津」の工号(日車の内部符丁)が記されています。またこれらの車両は、試作開発製造の為、芸備キハ1、2は1両13,000円の契約でも製造原価は1両14,096円余、キハ3、4は11,500円に対し14,654円余の赤字販売でした。
日車本店はこれらの失敗を肥やしに、なにくそと研鑽を重ね、名実とも日本一の内燃動車メーカーに育つのであります。
湯口先輩様、
すばらしいご講義、ありがとうございました。
すべてが“いい時代”の話ですね。映画やドラマにでもしたいような思いです。
こんな時代の鉄道ファンでいたかったと思いました。
こんな楽しい話をこれからもよろしくお願いいたします。
ご教授いただきたいのですが、南海電鉄に移行してからの写真ではいわゆる南海カラー(グリーンのツートン)に塗色された写真を見たことがありますが、和歌山鉄道時代はどういった塗色だったのでしょう?