信じられない、天野君が亡くなったなんて。まだ60歳台でしょう。
最近会ってはいないが、がっしりとした体格で筆者よりはるかに頑丈そうに見えたのに。
筆者が卒業後に、岩波君や宮本君達とよく一緒に居て、その縁で知り合ったと思う。湯口さんの写真を見ると、よく一緒に出かけていたのが判ります。
写真のセンスは湯口さんの言われる通り、筆者などは真似ができない。2006年の第一回写真展(於・大阪富士フィルムギャラリー)の出品が3点あった。デジタル青信号のギャラリーにアップされているのだが、管理人さんに無断で引っ張ってきてここに掲載させてもらった(管理人さんお許しください)。
彼の作品を見ながら、同行した時のことを思い出しています。声高らかに大騒ぎするスタイルでなく、静かであり、それでいてにこやか。穏やかな笑い声は、いつも同じでした。
筆者が特に覚えているのは、筆者の名を呼ぶとき、独特のイントネーションであった。多くの人は『つ』を高く、『る』を低く発音するが、天野君は逆で『つ』を低く『る』を高く発音した。今でもその発音が懐かしく耳に残っている。柔らかな声で、今にも呼ばれそうな気がする。それをもう望めないのは残念で仕方がありません。
ご冥福を心からお祈り致します。
またしても佳人短命、神様はいつも意地悪であると思う。
tsurukameさま
天野さんの写真を掲載していただき、ありがとうございました。私も、第一回の写真展の実行者として、ぜひ掲載しなければと思っていたところでした。
第一回の写真展のことを思い出します。ある時、天野さんから四つ切写真がどっさり入った箱が送られてきました。メモに“ご随意に”と大書きされた写真は、陰影を利かせた写真、旅の途中の何気ないシーンを捉えた写真など、“こんな写真が撮りたかった”と思わせる写真ばかりでした。どれも載せたい写真ばかりでしたが、この3点に決めました。鉄道写真に対する、鋭い感受性を持っておられた方だと思いました。
梅田の会場で、天野さんが来られた時、厳つい顔から、笑みがこぼれていました。もっとゆっくりお話をお聞きしたかったのですが、それ以来、お会いする機会がなく、叶わぬ夢となりました。本当に残念です。
心からご冥福をお祈りいたします。
亡くなられた天野様の写真を3点見させていただき、このような写真を1枚でもよいから撮ってみたいと思いました。特に「家路」はこの1枚の写真からいろいろなことを感じることができる写真だと思います。天野さんは私の6年先輩でまったくお会いしたこともありませんが、この写真から天野さんがどんな人であったかわかるような気がします。そして、この3点の写真を掲載されたtsurukameさま、この3点を第一回写真展に出展する作品に選ばれた総本家青信号特派員さまに感謝するしだいです。
このような写真を残していただいた天野様、心からご冥福をお祈りいたします。