京都駅にまつわる小ネタ集 (3)

平面クロスを渡って1番ホームに到着した特急列車

いつもコメントをいただく1900生さんから、京都駅にあった平面クロスについての思い出コメントがありました。私も、その豪快な通過音をよく覚えています。昭和40年代前半まで、京都~向日町の複々線は、南側2線が旅客線、北側2線が貨物線でした。このため、1番ホームに入線する上り旅客列車は、貨物線を横断しなければならず、下り貨物線、上り貨物線の2線分を平面クロスして、1番ホームに入線する珍しい構内配線になっていました。これは、何としても、京都駅の顔である本屋側の1番ホームに、特急などの優等列車を入線させたいとの思いがあったのでしょう。
昭和47年に構内配線が改良されて、下り貨物は、本線と奈良線の間の12番線(当時)に変更され、複々線の列車種別も変更されて、平面クロスは解消されました。現在でも、0番ホームに入線する列車は、当時の面影を残した入線シーンを見せていますが、あくまで分岐ポイントであり、豪快な平面クロスを聞くことはできなくなりました。貨物線と平面クロスして京都駅1番ホームに入る「白鳥」。まだ上野・青森行きの分割編成時代だったが、親不知付近だったと思うが、大規模な土砂崩れで北陸本線が不通となり、富山行きに変更されていた(昭和40年9月)。

この平面クロスで思い出す写真がある。「鉄道ファン」の初期号に掲載された国鉄主催の鉄道90周年記念写真コンクールの入選写真だった。雨の京都駅構内、三灯を輝かせた「つばめ」が入線するシーンだ。ちょうど平面クロスを通過する絶妙のタイミングで、こんな写真をぜひ自分でも撮りたいと、山陰線ホームと1番線ホームの間の撮影ポイントへ向かわせた。

その場所へ行き、「鉄道ファン」と同じタテ位置で撮ってみたものの、悲しいかな、標準レンズでは無理な話だった。165系の上り「比叡」(昭和40年12月)。

 

 

 

 

 

 

 

 

東海道線の電車特急が消えて、京都駅ではボンネット特急が見られなくなったが、「雷鳥」のデビューで、再び、魅惑的なスタイルを見ることができた(昭和40年12月)。

当時の1番ホーム(写真左)と2番ホームの間を走っていた下り貨物線をEF60の貨物が通過する。現在の上り貨物線に相当する位置(昭和40年9月)。

 

 

 京都駅にまつわる小ネタ集 (3)」への5件のフィードバック

  1. 総本家青信号特派員様
    ここも京都駅の名所のひとつでしたね。写真は1963年1月2日のEF5875[米原]牽引の準急「ゆのくに」の京都駅1番線到着です。右に見えるのは準急「きのさき1号」です。このすぐ横あたりに山陰線機回し線があったと思います。先日お話しましたようにこの頃の走行写真はほとんどピンボケです。

    • 準特急さま
      同一地点の写真を見せていただき、ありがとうございました。茶の58が牽く客車準急、右もDC準急と言うのが、準特急さんの歴史を感じさせます。私がこの場所で撮るのは、この3年ほど先になります。今日も、鉄道雑誌社のMさんから「懐かしい写真を、よう出してくれはった」と電話がありました。世代を越えて、この場所は鉄道趣味の原点なのですね。

  2. 総本家青信号特派員さま 準特急さま
    そうそうこの4葉目の感じでした。列車は「雷鳥」ですが「こだま」と雰囲気はそう変わらないので懐かしいですね。いまでも通過音をハッキリと想い出します。横に山陰線12番ホームの機回しポイントが写っていますね。こちらは直線部にあります。13番線のもこれと同じと間違えて記憶していたようです。

  3. 総本家青信号特派員さま
    写真の白鳥号も富山止まりだったのですか。実は小生も昭和44年夏の北海道からの帰り(函館で均周の有効期限を迎えたとき)に、同様に親不知付近の土砂崩れで長岡止りになった白鳥号の指定券を買っていました。札幌から特急「北海」に乗車すると、隣席には同い年位の青年が座っていました。小樽の手前で「青森から接続の白鳥号は長岡止りに」という車内放送が流れ、彼が「困った、どうしよう」と呟いたことがキッカケで会話に発展、いろいろ話すうちになんと彼も同志社大学生で、明日からの授業に備えて帰省中の北見から京都まで戻るところだったことが判明したのです。その後回ってきた車掌に聞くと、白鳥号を利用すれば長岡から先は知らん、東北線回りで東京からこだま自由席ならその乗車券で乗れるとの情報だったので、旅慣れていなさそうな彼には任せとけと言って時刻表を繰りだしました。青森からは「はつかり」に接続するので、この指定券に振替られれば上首尾と思いましたが、さすがに当日朝では指定券は無く、盛岡までの2時間をデッキに座ってウトウトして過ごし、盛岡で10分後にあった始発の急行「いわて」に乗換えて上野へ。たしか東京発15:30頃のこだま自由席で京都19:30前の到着だったと記憶しますが、所定の裏縦貫回りの白鳥利用に遅れること約1時間余りで帰京出来ました。親不知の不通は度々あったようですね。

    • 1900生さま
      前回に昭和44年夏の均周での帰途時に、函館で有効期間切れになっていたことは、お聞きしましたが、その後日譚があったのですね。たいへんな大回りをして戻ってこられたこと、当時の国鉄ならではの処置です。私も同じように9月の中頃に北海道から戻ってきましたが、いまメモを見返しても、どこにも北陸本線の不通のことは記されていません。私は奥羽本線経由で秋田から上野へ出て、「桜島・高千穂」で帰ってきました。最初から日本海縦貫線のことは頭になかったのかも知れません。

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