北のC62全記録 (13)

横道にそれて、いろいろ投稿を続けているうちに、シリーズものの続編を忘れてしまいました。“北海道のC62”すべての記録、昭和44年の夏休みの記録を再開します。
(10)大沼で上下C62急行「ニセコ」撮影(昭和44.8.28)
(11)上目名で上下C62急行「ニセコ」撮影(昭和44.8.29)
(12)小樽→長万部「ニセコ」乗車、二股~蕨岱「ニセコ」撮影(昭和44.9.10)
続いて(12)の翌日となる9月11日の紹介です。9月も中旬に入ると、そろそろ大学の後期授業も気になり始める頃となりましたが、定宿と化した倶知安ユースに泊まって、倶知安から、ひと駅分、小樽寄りの小沢で下車しました。初めて下車する駅でした。
小沢を出て20‰勾配に掛かる、函館行き「ニセコ1号」、C6244が前補機、次位の本務はC622で、C62重連も慣れてしまうと、2号機先頭以外は、興奮度が低くなる。

小沢は、よく行く上目名とは、倶知安からは逆方向になる。乗車列車は、上目名方面へは倶知安9時55分発だが、小沢方面へは10時53分発だから、朝がゆっくりできるメリットがあった。ただ上り「ニセコ1号」の場合は、小沢下車後30分余りで来るから、ゆっくりはできない。小沢~倶知安には峠があって。小沢方は20‰勾配となるから、C62牽引の上り「ニセコ1号」を狙うにはちょうどいいが、いずこも同じで開けた場所はなく、ずっと熊笹に覆われた切り通し区間が続いている。国道276号が平行していて、この区間で2ヵ所、函館本線をオーバーする。まず小沢駅を出てすぐ、駅から徒歩5分のところ、そして中間地点でオーバークロス、近年の復活蒸機の際は、みんなクルマで追い掛けるから、駅近よりも、不便な中間地点のほうが賑わったらしい。当時は、みんな徒歩だから、中間地点など、話題にも上がらなかった。私も駅近の地点で妥協しようかと思ったが、せっかくだからと歩き始めて、国道をくぐり、川を渡った左カーブの定番地点で待つことにした。

小沢は、当時は岩内線を分岐する駅で、乗降もそこそこあって、C62急行だけでなく、DC急行も停車していた。小沢を有名にしたのは、列車到着時の駅のアナウンスだ。「コザワ、コザワ、コザワ、コザワ~、岩内線はお乗り換え!」と、ものすごい早口で駅名をまくし立てる。そんな、アナウンスと、C62の息づかいが、撮影地にも伝わってきた。熊笹のうえで、滑りそうになりながら踏ん張って、待ち構えたが、編成は隠れてしまった。積雪期なら、もっと上から、全編成が大カーブの中に収められるが、それは無理だった。

小沢からすぐの列車に乗って、長万部へ向かった。途中、倶知安で交換した列車には、「天リウ」の標記を入れたスロ54 1と交換したとメモ帳に記されている。小沢では曇っていたが、次第に晴れてきて、羊蹄山もよく見えた。長万部機関区へ行くと、先ほどのC62 44が休んでいる。ちょうど隣に室蘭本線の旅客列車を牽くC57と顔を揃え、両者の顔立ちを比較できる。

 


下り「ニセコ3号」は、恒例の長万部構内の発車で済ますことにした。ほぼ、90度カーブするから、“ギラリ”の角度を考えて、構外の直線に掛かる寸前で待ち構えた。シャッターの嵐、と言っても、巻き上げ、ピント、シャッターの繰り返しだから、前後、5、6枚がいいところ、今の連続シャッターととはケタが違う。

去りゆくC62重連の後ろ姿をとらえる。時刻は16時26分、北国の太陽は傾き始めて、下回りを照らし出していた。

 北のC62全記録 (13)」への13件のフィードバック

  1. このシリーズ楽しませていただいています。長万部から小樽まで上目名(廃止)を除き全て明治30年代の駅開業。大正昭和の新設がありません。倶知安のYHは便利で利用させていただきました。冬では、1971年3月小沢方面国道がオーバークロス地点付近で撮ったことがあります(往路はバスを利用したような)。肝心の上り「ニセコ1号」が通過する頃吹雪となり、帰りは通りがかつた車に助けていただき小沢駅まで乗せてもらいました。小沢駅のせわしなく連呼するアナウンスは、私も印象に残っています。
    地方を旅する寅さん「男はつらいよ」。夏の小沢駅。マドンナ長山藍子の映画で、寅さんが小樽築港機関区(「つばめマーク」も転車台にいます)に、仕事中のある機関助士を訪ねます。そして機関助士が乗務する上り貨物列車を寅さんがタクシーで追いかけ、銀山駅をすぎ小沢駅で追いつきホームで機関助士と話をするという流れ。小沢駅1番ホームに岩内線のキハもいます。そして倶知安に向けてすごい夏の煙をはいて出発するD51貨物列車を寅さんが見送ります。これが映画のシーンです。
    アナウンスというと、下り列車で幾つもの峠を越えてやれやれという気分で到着した小樽。「オタールー、オタールー」となんとものんびりした駅アナウンスだったような気がします。

    • 逗子のTさま
      Tさんとは、この昭和44年、ご一緒に渡道していますが、何故かC62撮影の時は、一緒でなかったような気がします。お書きのように、“ヤマ線”は、明治期に北海道鉄道によって敷設されたままの姿を保っていたのですね。カーブ、勾配とも、蒸機にとっては難路でした。小沢のアナウンス、覚えておられましたか。お書きのように、逆に小樽は、伸びやかなアナウンスでした。そう言えば、倶知安も“くっちゃ~ん、くっちゃ~ん”と独特の口調でしたね。
      “寅さん”シリーズは、先ほどの京福と言い、よく覚えておられるのですね。小沢は、C62だけでなく、岩内線貨物の二つ目玉の96もいて、活気のある雰囲気の駅でした。一昨年でしたか、約50年ぶりに通りますと、人の気配の全くない、静寂の駅がそこにありました。

  2. 北海道で会った天リウのスロ541、早速探しましたがありませんでした。
    その代わりこんなのがありました。
    旭川で見た米ヨナのキハ28、夏の繁忙期には全国から出稼ぎ応援が集まっていたのですね。国鉄時代の助け合い。

    • 米手さま
      写真、ありがとうございます。そうですね、夏に北海道を旅行すると、本土の配置区の標記そのままに応援に来た車両を見掛けました。いまでは考えられないような、良き国鉄一家のシーンでした。さて、私のメモした天リウのスロ541は、たしかに昭和44年の配置表では竜華配置になっていますが、翌45年の配置表では、どこにも見当たりません。北海道の応援を最後に廃車になったのでしょうか。

      • スロ54 1は、札サウに転属したうえで昭和44年10月24日五稜郭工場で北海道向改造を受けスロ54 509になりました。北海道にも冷房付ロザが増え、代わりに非冷房のスロ52はオハ41 401~に改造されました。

      • スロ54 1は昭和44年10月24日に寒地向け改造を受けてスロ54 509になり、昭和58年2月4日に廃車となりました。500番台に改造後は、札幌運転区に所属していたようです。
        五稜郭工場で改造工事が行われておりますので、先を見越して北海道へ送られた可能性も考えられるのではないでしょうか。

          • いえいえ、滅相もございません。小生こそ失礼いたしました。
            スロ54 1は北海道向け改造を見越して早めに札幌へ転属させ、夏季の繁忙期を過ぎてから入場し、冬季に間に合うように落成したことがうかがえます。また、余剰となったスロ52をロングシートの通勤車、オハ41 400番台に改造して金沢・和歌山他に投入するなど、広範囲にわたる配転の妙味に興味を持ちました。
            しかし、竜華のスロ54は定期運用を失っていたのでしょうか。昭和46~7年ごろに、蒸機に牽かれたオールグリーン車の編成を見たことはあるのですが、生憎客車の番号までは確認できませんでした。
            本題のC62とは関係のない方向にそれてしまい、失礼しました。

      • 紫の1863さま
        井原 実 さま
        お二人からスロ541のその後について、的確な回答をいただき、ありがとうございます。たしかにコメント時刻を見ますと、深夜時間帯の1分違い! 眠い目をこすりながら、キーボードを打っていただいたお二人の姿が想像できます。デジ青への暖かい目、厳しい目、感謝申し上げます。
        私も冷房車なのに、廃車にしては早いなと思っていました。改めて、翌年の車両配置表を見ますと、スロ54の北海道向け500番代、501~511が全車出揃ったことが分かりました。

  3. 総本家青信号特派員様
    小沢は上目名、銀山などと共に有名な撮影地でしたね。小沢のカーブは駅を出て直ぐでしたが、私の時はえらい寒い日で氷点下10度を超えていました。機関車が何号機であろうと2両目の本務機が先頭補機の煙でつぶされないことを祈るばかりでした。C62重連の存在があまりにも大きく二つ目のキューロクやD51の客車は脇役もいいところで今になってみると気負っていない分こちらの方がまともに撮れています。下りニセコは条件が厳しく長万部出発は一つの選択で室蘭線のC57と出発前のC62の並びは私も撮りました。限界一杯の太いボイラと低い煙突のC62と細いボイラと高い煙突のとっくりに似たC57の対比がよくわかります。これらの思い出を持ったDRFCオールドファンも沢山おられることと思います。

    • 準特急さま
      C62撮影の思い出、ありがとうございます。おっしゃる通り、われわれ世代にとっては、たとえ電車ファンであろうと、私鉄ファンであろうと、C62重連だけは一目置く存在で、われわれ世代の象徴だったと思います。とくに昭和44年には、全部で十数人のDRFCメンバーが渡道したほどでした。余りにも、その存在が大きく、いまも忘れられないため、復活蒸機には関心が行きません。

  4. 紫の1863様
    蒸機に牽かれたオールグリーンとはこのことでしょうか?昭和46年奈良線木津川鉄橋です。天リウのスロ54?

  5. 西村雅幸様
    C58+グリーン車5両ですか。天リウの可能性が大きいですね。昭和46年5月23日の午後2時ごろ、加太の大築堤を上ってくるD51+グリーン車の5両編成を撮っております。
    昭和47年4月16日の夕方には、場所も同じ奈良線の木津川鉄橋で、D51 944+グリーン車の6両を写していました。1両目は天リウのスロフ62 2029でしたので、中間の4両は天リウのスロ54だったのかもしれません。

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