鉄道、つれづれ草 ー吉川文夫氏作品編ー

“乙訓の老人”とはご本人が決めたハンドルネームですが、ご本人に代わって代理投稿をするに当たり、尊敬するDRFC創設者のお一人を、たとえご本人が決めたハンドルネームといえども“老人”呼ばわりするのは気が引けました。ひとは私の事を「傍若無人」とか「ゴウマン且つ横暴」とか言いますが、この様に長幼の序をわきまえた常識人ですからここは今まで通り“乙訓の長老”と呼ばせていただきます。もちろん皆様それぞれのお考えで呼びかけてくださって結構です。

さて、長老は日頃から『ワシの鉄道の師匠は吉川文夫さんや。かわいがってもらった。そして写真もたくさんもらったが、好きに使っても良いと言ってくれた。』とその一部を持ち込んで来られたのです。それを今回は公開します。

吉川文夫さんの写真には、長老と違い、裏に簡単なメモが記されています。
ところがこれがわかりにくい!
メモですからご本人のおぼえでしょう。他人が見ると読めないものもあり、矢印が何を意味するのかも不明なものもあります。
従って、はっきり理解できるものだけを表示しますので例によってご賢察を聞かせ下さい。

①長崎電軌152  大橋停留所 撮影場所は浦上川鉄橋

▲この写真のメモには漢字で「長崎」とあり、上に赤ペンで「ヒロシマ」と書いてあります。その他には、「152」「木橋44.5.1」とあります。

②横浜市電の電動有蓋貨車 昭和24年に7両増備(24~30)したうちの1両 滝頭(たきがしら)車庫 (以下、小田急関連はSN氏)

▲横シデン28 39.4.26 とのメモがあります。横浜市電の意味でしょうか?

③デハ1302は昭和2年藤永田造船所製の3扉車でしたが、昭和34年に更新修繕を受け、3扉から両開き扉で2扉化、側窓も下降式からアルミサッシの2段上昇式等になり、写真で見ても更新の努力の跡が感じられます。

▲1302 相模大野35.1.24 とあります。

④デユニ1001 郵便、荷物、新聞輸送や貨車の牽引等にも使用された。昭和35年秋車体更新。昭和46年郵便輸送廃止に伴いデニ1001。昭和59年廃車。経堂車庫にて撮影。

▲1001 経堂 35.1.24

⑤小田急HE2400形は昭和29年より投入された2200形等の軽量高性能車の実績を踏まえ、更に経済性の高い(ハイ・エコノミカル・カー)軽量高性能車として登場した。先頭クハ2451+…の第一編成が昭和35年1月20日より運用を開始した。

▲OER2451 相模大野 35.1.24

▲静鉄ハ11 新横須賀 40.1.31

▲静鉄DB608 袋井 40.1.31

▲静鉄DD501 新藤枝 44.1.16

⑨静岡鉄道秋葉線

▲静鉄3+ハ2 飯田 37.8.14

⑩静岡鉄道秋葉線

▲静鉄6 山◯(読めない)付近←山梨付近でした(西村雅幸さん) 37.8.14

⑪静岡鉄道秋葉線

▲静鉄ハ2 市場 37.8.14

⑫栗原電鉄 東武日光軌道線で使われていた機関車

▲仙形←(仙形とはナニ?)ED351 若柳 50.5.22
どですかでんさんのご指摘で⑫から⑲は「栗原電鉄」と分かりましたが、吉川文夫 さんはどうして「仙形」と書かれたのでしょうか?

⑬栗原電鉄

▲仙形ワフ71 若柳 50.5.22

⑭栗原電鉄

▲仙形M151 若柳 50.5.22

⑮栗原電鉄 ED20 は762mmゲージの時の車体をそのままで1067mmに改軌して使っていた

▲仙形ED202 若柳 50.5.22

⑯栗原電鉄

▲仙形DB101 石越 50.5.22

⑰栗原電鉄

▲仙形M151 石越 50.5.22

⑱栗原電鉄

▲仙形C151 青柳 50.5.22

⑲栗原電鉄

▲仙形C151 青柳 50.5.22

▲仙台121 東五番町 45.5.1

▲名鉄2811 南富山 43.6.22

㉒新岐阜駅の北側にあった岐阜工場で、軌道線の車両を担当してましたが、4月には市ノ坪に移転したようです。左からモ1形モ3・モ520形・モ550形モ557が見えます。モ3は明治44年美濃電開業時に天野工場で製造された生き残りで、昭和42年7月の単車全廃まで働きました。モ557は北陸鉄道金沢市内線のモハ2000形で、全長10.5メートルの小型車です。(以下、名鉄関連は紫の1863氏より)

▲3 日野車庫 42.3.21

㉓美濃町線の先端部分で、平成17年の全廃よりも一足早く、平成11年に廃止されました。モ520形は大正12年に日本車輌で製造された美濃電BD505形で、昭和63年に廃車されました。モ510形とペアを組んだ、揖斐線直通運転もありました。

▲静鉄(←たぶん間違い?)522 美濃~松森 42.3.21

㉔材木町付近は右に左に急カーブが連続して小型車しか入線できず、明治大正生まれの4輪単車が生き残っていました。しかし、金沢から来たモ550形と交代する形で、昭和42年7月に姿を消しました。モ30形モ31は大正9年に誕生した、名古屋電車製作所の瀬戸電デ28

▲31 材木町 42.3.21

㉕美濃町線の日野橋。モ500形モ502は美濃電初のボギー車として大正10年に名古屋電車製作所で製造されたBD500形で、当初はオープンデッキの木造車でした。後年車体に鋼板を張り、いわゆる『偽スチール』化が実施されました。

▲502 日野橋 42.3.31

これで一旦お休みします。長老様が次の作品をまとめてくださるまでお待ちください。

鉄道、つれづれ草 ー吉川文夫氏作品編ー」への16件のフィードバック

  1. 米手作市様
    吉川文夫さんの著作「譲渡車両」などを持っております。鉄道友の会の最重鎮でしたが、先般デジ青上で宮崎繁幹さんが少し触れられている合葉博治さんを吉川さんが訪問された時に偶然お会いしたことがあります。合葉さんが吉川さんに私を紹介して「この人は同志社の出身」だと話されたところ吉川さんは即「あそこは京阪だ」と言われたことを思い出します。既に乙訓の老人さんとのお付き合いがあり、老人さんを中心に鉄ピク誌に同志社大学鉄道同好会名で京阪電車を発表されたことなどが吉川さんの頭の中に強く印象に残っていたものと思われます。その後老人さんは吉川さんとはドイツなどもご一緒されたように聞いております。老人さんとは全く逆のタイプでこう言っては老人さんには失礼ですが、温厚で親切、丁寧な感じがしました。もちろん老人さんの暖かくも鋭い洞察力と知識には敬意を表しております。吉川さんがお亡くなりになった時総本家青信号さんも葬儀に参列され、上の方でも結構東西交流があったのだなと感心しました。

    • 準特急さん、
      長老の世代もいろいろと横のつながりがあったことは最近知ることとなりました。
      我々以下の世代も、負けないくらいいろんな方々のご協力を頂いていることをありがたく感謝し、さらに若い世代へとバトンタッチをして行けたら嬉しいことですね。

  2. いつもの四方山ばなしで恐縮ですが、吉川文夫さん(恐れ多くもさん付けで呼ばせて頂きます)をひらかたパーク(今はひらパーというらしい。頭でも狂ったか)に展示してあったびわこ63号へご案内したことを思い出しました。昭和60年だったと記憶します。前年まで小生がパーク勤務だったこともあり、乙訓の長老さまから、吉川さんがびわこ号を見学したいと仰っている、案内を請う、というお話を頂戴したからでした。そこでぷるぷるさんにもご一緒してもらったわけです。当日は長老、吉川さん、それにこれもご重鎮の高橋弘さんのお三方でお見えになり、小一時間ほどたっぷりと観察されておられました。後日吉川さんからはご礼状を、高橋さんからはびわこ号を背に皆で撮った記念写真を頂戴しました。長老さまは別として、ご両名はそれこそ鉄道趣味界では足元にも寄れない雲の上の方々であり、ご案内を喜んで頂けたのは身に余る光栄だとぷるぷるさんと話し合ったものです。
    余談ですが、ある日帰り支度をしていたところ、受付係が1枚の名刺持ってきて、こういう方がびわこ号の写真撮影を所望されているが、もう閉園時刻も過ぎているのでお断りしましょうか?と言ってきました。初めは断ろうかと判断しましたが名刺を見てビックリ、なんとあの広田尚敬さんだったのです。ある鉄道書籍の取材ということでもあったので、これは断ったら天罰が下るかもと思い直し、むしろなんとしてもぜひご案内をしたいと中に入って頂いたことがありました。ご案内中、前の予定で時間がかかって遅くなった、無理をお願いして申し訳ないと何度も仰り、大家にしてはなんと腰の低い紳士だと感銘を受けながらご案内したものでした。
    いずれも仕事でお目にかかれた想い出ですが、趣味上では遠く及ばない方々ばかりでしたから、本当に有難いことと思ったことでした。

    • 1900生さんも十分「腰の低い紳士」ですよ。
      その上、映像の魔術師とも呼ばれているではありませんか!自信を持ってください。

  3. 過日の模型運転会のあとの懇親会で、隣のテーブルにおられた米手さんが寄って来られ、柔和な表情を絶やさない米手さんには珍しく、形相を変えて迫って来られ“もっとコメントせぇ!”と言われました。私は車両については、知識も不足していますので、写真の主である、吉川文夫さんのことについて書きます。
    私に吉川さんを紹介していただいたのも、乙訓の老人さまでした。たしか、ジャンジャン横町で、阪堺線の帰りにお会いして、みんなで一献したのが始まりと記憶しています。その後、私の仕事上でも親交が深まり、何回か、鎌倉のお宅にもお邪魔したことがあります。いつも駅までは、奥さまが外車で迎えに来ていただき、いかにも“鎌倉”という豪壮なお宅で打ち合わせしました。準特急さんもお書きのように、温厚、博識、親切を絵に描いたような紳士でした。私のところにも、わざわざ郵便で写真、資料を何度も送っていただきました。出来上がった本の祝賀会が静岡であった時には、関係者が集まり、吉川さん、須磨の人間国宝、乙訓の老人、それに1900生さんもお書きの廣田さんも加えた4人が入った記念写真は、私の宝ものです。ご逝去されたときも、上京する機会があり、通夜に行きましたが、名だたる鉄道趣味人が多数来ておられ、人望の厚さを改めて感じたものでした。

    • 私が「柔和な」男であることは紛れもない事実ですが、時間に遅れたことを棚に上げ、「鬼の形相」で特派員氏に文句を言うわけがありません!
      私が言ったのは「特派員氏のコメントがいただければ、嬉しいこと、この上ありません。よろしく」と七重の腰を八重に折り懇切丁寧に懇願しただけです。

  4. ここ数日は、身内の葬儀のため倉敷へ滞在したため本稿を投稿した後は見られない状態で、お返事が遅れたことをお詫びします。
    さすが吉川文夫さん、皆様の思い出は多く残っているようです。
    でも、当該写真の分析がなされていないのは困りものです。
    皆様の的確なデータをお待ちしています。
    よろしくお願い致します。

  5. 初めてデジ青に投稿したのは2011年10月8日で富山地鉄五百石駅(旧駅舎)の紹介でした。その時の最初のコメントが「乙訓の老人」でした。それからコメントを何回かいただいたのですが、その時はいつも「乙訓の老人様」で返事をしていました。ある時、ちょっと具合が悪いなと思ったのか、「乙訓の長老様」としてコメントの返事をするようになりました。2013年10月8日のコメントからです。さて、私のわかる範囲では(ほとんどは本などの写真による知識からですが)、写真⑨⑩⑪です。静岡鉄道秋葉線で、特に写真⑨と⑪は長老様が「東海道の電車を楽しむ-その4-」の投稿の中で掲載されていました。写真⑫から⑲は栗原電鉄で、⑫のED35は東武日光軌道線で使われていた機関車とのことです。また⑮のED20 は762mmゲージの時の車体をそのままで1067mmに改軌して使っていたのです。吉川文夫さんについてはお会いもしたことないのですが、乙訓の長老様から「ちょっとな。信貴電の開業した時に走ったデハ100について調べてくれへんか。村田式台車をはいておった電車や。頼むわ。」とかなんとか言われて、なんせ、長老様の御頼みですので調べ始めました。そこで調べると鉄道ピクトリアル誌に吉川文夫さんが書かれた「信貴生駒電鉄開業時の車両101形を探る」という記事に村田式台車の写真がありました。たぶん、いろいろな角度から写真を撮られていると思うのですが、見てみたいものです。今となっては、かなわぬことですが。

  6. 1997年3月に袋井市教育委員会が発行した「袋井市文化財パンフレット 第11集」という16ページの小冊子があり、袋井駅前から遠州森町を結んでいた静鉄秋葉線が特集されています。その表紙に明記されているように、写真はすべて吉川文夫氏の提供で、カラー写真を含む39枚の写真が収録されています。その中に、ここで紹介されている⑨、⑩、⑪も収録されています。⑩の撮影場所は、車庫のあった「山梨付近」です。袋井市教育委員会は他にも2001年3月に「第18集 懐かしの駿遠線」、2002年3月にはもう一度「第19集 思い出の秋葉線」を発行しています。専門的な記述はありませんが、当時の風景を知るには貴重な資料です。表紙の写真だけを添付します。

  7. 西村雅幸さん、どですかでんさん、
    ありがとうございます。
    ご覧の通り、他にも不明なことが多々ありますので第二報を待っています。

  8. 私が栗原電鉄を訪ねたのは平成18年7月で、「くりはら田園鉄道」と社名も変わり、電気鉄道から非電化鉄道になってディーゼルカーが走っていた時代でした。しかし車庫のある若柳には電車が何両か残されていました。⑲のC151もみじめな姿で残っていました。正面は2枚窓、反対側は貫通扉のあるクハです。これは推測ですが、「仙形」とは仙台地方独特の形式のつけ方に関係しているのではと思うのですが・・・」

  9. どなたも名鉄を書き込まれませんので、よほど人気がないのでしょうか? 
    ㉒ 新岐阜駅の北側にあった岐阜工場で、軌道線の車両を担当してましたが、4月には市ノ坪に移転したようです。左からモ1形モ3・モ520形・モ550形モ557が見えます。モ3は明治44年美濃電開業時に天野工場で製造された生き残りで、昭和42年7月の単車全廃まで働きました。モ557は北陸鉄道金沢市内線のモハ2000形で、全長10.5メートルの小型車です。
    ㉓ 美濃町線の先端部分で、平成17年の全廃よりも一足早く、平成11年に廃止されました。モ520形は大正12年に日本車輌で製造された美濃電BD505形で、昭和63年に廃車されました。モ510形とペアを組んだ、揖斐線直通運転もありましたねえ。
    ㉔ 材木町付近は右に左に急カーブが連続して小型車しか入線できず、明治大正生まれの4輪単車が生き残っていました。しかし、金沢から来たモ550形と交代する形で、昭和42年7月に姿を消しました。モ30形モ31は大正9年に誕生した、名古屋電車製作所の瀬戸電デ28です。
    ㉕ 美濃町線の日野橋。モ500形モ502は美濃電初のボギー車として大正10年に名古屋電車製作所で製造されたBD500形で、当初はオープンデッキの木造車でした。後年車体に鋼板を張り、いわゆる『偽スチール』化が実施されました。
    小生が間に合ったのは金沢から来たモ550形だけで、しかもスカーレットへの過渡期でした。

  10. 紫の1863様に続いてSN様からも調査報告です。感謝!

    SNです。鉄道、つれづれ草 ー吉川文夫氏作品編ーの写真①について調べました。
    場所は長崎電軌の大橋(左方向)~浦上車庫(右方向)間の浦上川橋梁を行く150形152赤迫方面行きを撮影したものです。

    吉川様のメモ
    「木橋44.5.1」は撮影場所・日時「大橋・昭和44年5月1日」ではないでしょうか。
    大橋は長崎の平和公園の傍でヒロシマの市内電車のことをおもいだされたのではないでしょうか。
    150形152は昭和32年箱根登山鉄道の小田原市内線の廃止により譲渡されたものです。
    写真を見ると長崎電軌の橋梁の一段上に橋梁上のレールと枕木列は長崎本線(左方浦上、右方長与)、更に、長崎本線上方の工事中のコンクリートの橋桁状のものは浦上新線建設に伴う高架工事です。浦上新線工事は長崎本線の鉄道写真の撮影名所喜々津~大草の海岸線をバイパスし喜々津~浦上をトンネルで直結するものです。昭和41年10月31日起工昭和47年10月2日開通しました。

    引き続き分かったものから連絡します。

    皆様、ご協力をお願い致します。

    なお、長老様には先日、ぶんしゅうさんがノートパソコンを持参してご覧に入れたようです。これからも見せに行くそうです。

  11. ①は長崎電軌で、撮影場所は浦上川鉄橋だと思われます。画面左手、橋のたもとが大橋電停です。メモ書きの「木橋」は「大橋」ではないでしょうか。浦上車庫もすぐ近くなので、車庫訪問時に撮影されたのでしょう。さてこの電車、元は東京の王子電気軌道の400形(1925年生まれ)で、買収されて都電100形となり、その後箱根登山鉄道小田原市内線の202号だった車です。小田原市内線廃止に伴い、昭和32年7月に長崎電軌に来ています。その際車体を切断して11mに短く改造したようです。元は木造車で鋼板を貼ったニセスチール車のようです。グーグルアースを見ると、長崎電軌の浦上川鉄橋は現在複線のプレートガーダー橋に架け替えられているようです。電車の向こう側の線路は国鉄長崎本線です。その後ろの工事中の高架橋は、昭和47年10月2日に開通した浦上新線のようです。44.5.1は昭和44年5月1日の意味でしょうから、浦上新線の工事状況と符合します。この写真では地上にある旧線(長与支線)は現在では浦上新線と同様に高架化されていて、この写真とは少し風景が違っています。152号は151号に改番されて事業用車として、箱根登山時代の塗装に戻されて動態保存されていましたが、平成31年3月31日付けで廃車されています。東京から小田原、そしてはるばる長崎に来て94年の生涯を終えた長寿電車でした。

  12. SNさんからの追加報告をいただきましたので編集・掲載致します。

    写真②
    横浜市電の電動有蓋貨車で昭和24年に7両増備(24~30)したうちの1両です。種車は老朽化した300形を改造したもの。トラック等が少ない当時中央市場から市内各所に野菜等を運ぶために使用され、昭和38年まで活躍したとのことです。撮影場所は市電の工場もあった滝頭(たきがしら)車庫と思われます。本件含め横浜市電の電動貨車についてはRMライブラリー120横浜市電(下)に詳しく記述されています。

    写真③
    デハ1302は昭和2年藤永田造船所製の3扉車でしたが、昭和34年に更新修繕を受け、3扉から両開き扉で2扉化、側窓も下降式からアルミサッシの2段上昇式等になり、写真で見ても更新の努力の跡が感じられます。

    写真④
    デユニ1001 郵便、荷物、新聞輸送や貨車の牽引等にも使用された。昭和35年秋車体更新。昭和46年郵便輸送廃止に伴いデニ1001。昭和59年廃車。経堂車庫にて撮影。

    写真⑤
    小田急HE2400形は昭和29年より投入された2200形等の軽量高性能車の実績を踏まえ、更に経済性の高い(ハイ・エコノミカル・カー)軽量高性能車として登場した。先頭クハ2451+…の第一編成が昭和35年1月20日より運用を開始した。
    写真は、後に相模大野工場となる敷地の電留線で見学に供されるHE2400形第一編成を、小田原線をクロスオバーする江ノ島線上り線の築堤より撮影したものと思います。線路の向こうには住宅公団の団地、更に遠くに丹沢の山々が望まれます。

    写真③~⑤が撮影された昭和35年1月24日は日曜日で、一般の鉄道ファン向けの経堂・相模大野車庫の見学会が開催され、相模大野では最新鋭のHE2400形を見学できたのではと想像した次第です。(仕事に関連する行事であれば平日開催ではないでしょうか。)

    栗原電鉄の写真⑫~⑲のメモ仙形の「仙」は仙台地区の「形」は車両主体の形式写真的なものと解釈。すべての写真に必ず成立しているわけではありませんが。大多数は車両主体です。

    SNさん、ありがとうございました。

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