ふた旅 めぐる旅 東北編 ⑥

秋田

五能線で18きっぷ乗車を楽しみ、東能代から乗り換えて、秋田まで来ました。あとは、夕方の伊丹便までの数時間を使って、秋田駅の今昔対比と、男鹿線の初乗車をすることにしました。新幹線開業後の秋田駅で、乗り換えたことはあるものの、駅の内外をゆっくりするのは初めてのことでした。駅舎は橋上駅になり、裏手にあった機関区もすべて無くなり、一見して大きく変貌したように見えますが、新幹線は、高架の新設駅ではなく、在来線ホームの半分を使って発着していますから、構内の配線だけは以前と変わらず、50年前に見たシーンがそのまま残っていました。

撮影した昭和43年9月は、まだ秋田まで電化が到達しておらず、列車もほとんどが蒸機牽引で、DLは少数だった。2番ホームから、酒田発男鹿行き1137レが発車するところ。この列車は、秋田をスルーして羽越本線から男鹿線に入る珍しい列車。秋田まではD51牽引だが、男鹿線に入線できないので、C11 144〔秋〕に交替するが、切り欠き式のホームのため、有効長が足らず、C11は半分がホームからハミ出している。

現在の同地点、列車こそ2番ホームに停車していないが、50年前と同じ光景が見られた。

切り欠き式の1番ホームをそのまま後退すると、乗車する男鹿線のDCが待っていた。新系列のDCも入線しているが、乗車するのはキハ40の2連、五能線と同じ塗装だが、カラーがグリーンになっている。

秋田7・8番ホームは、前記のように、秋田新幹線も発着する新在共用のホームで、中間の車止めを挟んで、上り方は新幹線、下り方は奥羽線となっている。地元では見慣れた光景だろうが、奥羽線の列車から下車して、いきなり目の前に赤いE6系が飛び込んできたのには驚かされた。

 

 

 

 

 

 

 

 

新幹線が発着する7・8番ホームには、駅舎に付帯した跨線橋とは別に、北跨線橋が残っていて、50年前と同じ、アングル材を組み合わせた木造橋で残っていた。

男鹿

初乗車となる男鹿線は、50年前に訪問した昭和43年の3月までは、船川線だった。終点の船川が、男鹿に改称されたため、線名も男鹿線になった。男鹿に着くと、折返し列車までには40分の時間があり、さっそくカメラだけを持って街歩きに出発した。かつての港町として栄えた船川の面影を偲ばせる、街並みや朽ちた建築物があった。

男鹿駅は昨年、終端部に新しい駅舎が新設された。屋上が展望テラスになり、駅や街並みが見渡せる。右下は、テラスから反対方向を見た駅前で、かつて船川港まで通じていた臨港線の廃線跡が、オレンジ帯で示されている。

 

10 thoughts on “ ふた旅 めぐる旅 東北編 ⑥

  1. 特派員殿
    今年の東北旅も終わりになりましたね。秋田のC11を懐かしく拝見しました。私は友人と昭和40年高1の夏休みに大胆にも東北旅行を敢行しています。上野から奥羽本線経由の急行臨時男鹿でC57に牽かれて秋田に向かいました。途中大曲から分岐する 現在の田沢湖線はまだ生保内までの生保内線で船川線同様にC11が牽く客レでした。早朝秋田に着き、特急「つばさ」と「白鳥」の同時発車を撮ろうと、数時間秋田駅構内をウロウロしていました。今から思えば、駅前に出て まだ元気だった秋田市電を撮っておくべきだったと悔やまれますが、まさに若気の至りですね。その同時発車のカットの右手にワフがチラッと写っているのが、切り欠きホームですね。ビネーガーシンドロームで反り返ったハーフサイズフィルムから何とかスキャンできた同時発車シーン(後ろから)のピンボケ写真を添付します。54年前 82系特急が輝いていた時代でした。このシーンを撮った後、船川線に乗り鉄しているのですが、雨だったせいか全く写真を撮っていません。冷蔵車が並んでいた記憶はあります。

    • 西村様
      55年前の貴重な写真、拝見しました。高校一年で東北とは、たしかに大胆ですね。私の高校一年の撮影は、最遠が広島でした。82系がいちばん輝いていた時代、それが同時発車するのは、当時の雑誌にもよく紹介されていた、憧れのシーンでした。でも、秋田市電ももちろん捨てがたい写材です。とにかく、今から見れば、見るものすべてが、撮影の対象となった時代です。右が切り欠きホームですと、3・4番ホームですか。当時の船川は、日本海側の漁港として栄えていたようです。冷蔵車も多かったことでしょう。

  2. そうか、男鹿線とは船川線のことだったか!田沢湖線とは生保内線のことだったのか!
    船川線にはわらくろ屋社長と学生時代に乗ったことがあります。

    • はい、線名というのは、ずっと変わらないと思っていますが、ここ50年で見ても、結構、変更がありますね。田沢湖線←生保内線+橋場線、北上線←横黒線、岩泉線(廃止)←小本線と、東北でもよく見られました。船川線の時から、わらくろや社長と只ならぬ関係があったこと、初めて知りましたょ。

  3. 秋田駅は昭和51年夏に降りましたが、二階で土産物を物色しただけで、駅ビルや車両の写真は撮りませんでした。ですが、何を思ったか男鹿線は終点まで乗車しました。車両や駅を撮るでもなし、ただ乗ったというだけで、入場券を買っただけです。もう二度と訪れることはない土地なのに、ずいぶん勿体無いことをしたと思いますが、当時は何も考えていなかったようです。男鹿駅が船川駅だったことも、臨港線があったことも今回初めて知りました。男鹿でたった一枚写した写真には、小さな漁船が引き上げられた浜のむこうに、石油タンクが並んでいました。今では、その海も埋め立てられ、広大な石油備蓄基地に変わりました。40年余り昔に撮ったなんでもない写真も、時が経つとそれなりの価値があるようです。もっとも、自分勝手な感慨かもしれません。
    上野からの臨時急行「おが」2号が、秋田から快速列車となって男鹿まで直通しておりましたが、途中追分で10分ほど停車しました。DD54ほどではありませんが、DD51は親の仇のように考えており、滅多に写さなかったのですが、たまたま撮っておりました。DD51が牽く客車列車は珍しくもありませんが、これも今となっては自分なりに貴重な記録になりました。

    • 紫の1863さま
      男鹿線の思い出、ありがとうございます。秋田という駅は、われわれの時代、北海道への行き帰りの途中駅という印象でした。男鹿線も、今までわざわざ乗りに行くことはなく、今回、初めて乗りました。先ごろ、山科の人間国宝のお宅に行きますと、男鹿線にあった、可動橋を渡るC11の珍しい写真を見せてもらいました。
      「おが2号」、古い時刻表で確認しました。ほとんどの期間運転されていた不定期急行のようですね。編成を見ますと、座席車ばかりの10両編成でした。すべて男鹿線には入線せずに、秋田までの編成もあったようですが、DD51の牽く長い急行編成は魅力的に映ります。

  4. 画像を添付しようとしたのですが、上手く送れませんでした。
    昨夏、甲子園を沸かせた金足農業が、画面右手にあったとは知りませんでした。

  5. 総本家青信号特派員様
    大人の休日クラブ利用で東北も身近になりました。特に男鹿線は日帰りができるので2度ほど行きましたが、多分総本家さんもご覧になり乗車されたと思いますが男鹿線羽立-男鹿間を行くJR東日本EV-E801+EV-E800-1の1133M男鹿行きです。交流用一般型蓄電池駆動電車で電化区間はパンタを上げ非電化区間ではそれを下し、終点男鹿では充電設備があるのでまたパンタを上げるそうです。残念ですが充電は見ておりません。同じような考え方の車両が烏山線にも走っておりますが、デビューはこちらの方が先です。キハ82系特急の同時発車も奥羽本線、男鹿線の蒸機も、秋田市電も撮っておりません。秋田は遠い所でした。

    • 準特急様
      ご返信が遅くなりましたが、写真、ありがとうございます。この車両は、私は見なかったのですが、男鹿に充電設備があるのは見ました。「交流用一般型蓄電池駆動電車」と言うのですか。難しいですね。私は、形式に「EV」とか入ってくると、途端にダメになります。やっぱり「キハ」や「クモハ」でないと付いて行けません。さて撮影地は、男鹿~羽立とあります。車窓からの印象では平地を走っていたように思います。こんな山間地の撮影地があったのですね。

  6. 総本家青信号特派員様
    男鹿から羽立まで歩きましたが平地です。ただ、ちょっとした山が順光でよく見えたので腰を据えたのですが、もう少し引き付けて家を隠すとよかったと思います。男鹿線は天王-船越間の鉄橋が有名ですが行っていません。しつこいようですが今年1月28日朝、上二田という駅で降りて撮ったモハかキハかよくわからない同じ車両の男鹿行きです。

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