ふた旅 めぐる旅 東北編 ③

野辺地

三陸鉄道に乗り、久慈からは、西村さんと一緒に「リゾートうみねこ」編成、キハ48 1500代車に乗って八戸へ着き、青い森鉄道に乗り換えて、野辺地に着きました。ここで大湊線に乗り換えるのですが、野辺地にも格別の思い出があります。かつて南部縦貫鉄道が、東北本線の旧線跡を利用して、野辺地に発着していました。昭和47年2月丸っこいレールバスを写そうと来たところ、何としたことか、時刻表を読み違えて、レールバスは出発したあと、その次は数時間後の発着で、泣く泣く野辺地を離れたことが今も心に残っています。結局、南部縦貫のレールバスは、乗ることも撮ることなく終わってしまいました。ホロ苦い思い出の残る野辺地で、定点対比はできなかったものの、新旧の写真で思い出を綴ってみることにします。
朝の野辺地駅、乗換の列車を待っている間、つぎつぎに貨物列車が通過して行った。いまは、第三セクターとして、旅客列車が走っているものの、ここは、北海道への重要な貨物路線であることを改めて感じた。車窓からも、かつての東北本線の輸送時代を偲ばせる、強固で雄大なインフラが見られた。駅名標は、青い森のデザインに、JR大湊線を付加したスタイルだった。

 

南部縦貫に振られた野辺地では、つぎの列車まで発着の列車を撮るしかなかったが、思わぬ儲けものがあった。訪れた昭和47年2月、札幌では冬季オリンピックが行われていた。これに合わせて、札幌~函館、青森~上野に臨時特急「オリンピア」が運転された。函館~札幌は82系DCで、上野~青森は写真の583系で、下りは常磐線経由の夜行、写真の上りは東北線経由の昼行だった。「オリンピア」と言えば、東京オリンピックの際に運転された151系が有名だが、札幌オリンピックでも、期間中の18日間だけ運転された。ただ、北海道への移動は航空機が常識になりつつあり、利用率は散々だったようだ。この列車が撮れただけでも南部縦貫の代償にはなった(2011年記事を再掲)。

やがてED75に牽かれた下り「ゆうづる」が通過する。「ゆうづる」は3往復あったが、2往復は583系、残り1往復のみが20系客車だった。この時代、東北本線の牽引はすべてED75、ブルトレは20系、そしてヘッドマークは付いていない。▲▲ED75は貨物の牽引にも当たっていた。雪煙を上げて野辺地を出て行く、上りの普通列車。

南部縦貫鉄道は、写真中央に駅舎、ホームがあって、跨線橋で連絡していた。1999年に休止(のち廃止)され、しばらく線路は手つかずだったが、跨線橋は分断され、駅舎、ホームも解体された。野辺地と言えば、明治26年に造林された日本最初の鉄道防雪林が有名で、鉄道記念物に指定されている。大湊線の列車の到着が近づくと、ホームは乗客の姿が目立って来た。野辺地の唯一のJR線、大湊線は2番ホームに発着、通常はキハ100系の2連

 

野辺地の八戸方を見る。構内は三面五線の配線だが、左手の1番線ホームは使われていない様子。左奥に保線基地への側線が伸びている。下は1番線にあった大湊線のゼロキロポスト。

 

 

 

 

 

 

 

駅は青い森の管轄だが、「のへじ」の表現は、国鉄時代から。▲▲サッカーの柴崎岳の出身地で、寂しい駅前にあって横断幕だけが目立っていた。

EH500の牽引する貨物は、よく通過する。初期の2次型。

 

 ふた旅 めぐる旅 東北編 ③」への3件のフィードバック

  1. 私は野辺地18時14分発の列車で大湊へ向かいましたが、大湊線は初めて乗る線区でした。沿線は、ほとんど人家が見当たらず、まるで北海道の雰囲気です。駅間も長く、とくに有戸~吹越は13.4kmもあり、津軽湾の向こうに下北半島が見える絶好のビューポイントです。ちょうど、トワイライトのころで、思わず運転台横に駆けつけ、流れていく光景を写しました。

    • 良い写真ですね!
      いつだったか、この付近のユースで泊まった翌朝の新聞で、『京阪電車脱線転覆!蒲生信号所で』の一面記事をわらくろや社長(社長になる前)と読んだのを思い出します。

      • コメント、ありがとうございます。この有戸~吹越は、青春18きっぷポスターにもよく出てくる有名な撮影地ですね。準特急さんも好んで行かれていたと聞きます。撮る側からすると、本数の少なさと、駅間の長さもあって、難度の高いところです。旅先で知った重大ニュースは、何故かよく覚えているものです。私も体験したことがあります。

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