ふた旅 めぐる旅 東北編 ②

陸中山田

今回、三陸鉄道の「トレランス」乗車では、前掲の大槌のほかにも、定点対比したい駅がありました。リアス線に乗って、大槌から5つ目の陸中山田駅であり、50年前、列車で通った際に、交換列車を撮影していました。東日本大震災の時、山田の被害は甚大で、津波だけでなく、その後、大規模な火災が発生して、街を焼き尽くしたと言います。昭和47年2月、山田線の急行「陸中」に乗車し、大槌に停車したあと、つぎの停車駅、陸中山田で636Dと交換する。陸中山田は、山田線の語源となった駅だけに、この地方の中心で乗降も多い。交換列車は、盛岡発花巻行きで、当時は、山田線・釜石線を通しで運転する列車が多かった。今なら、何本の列車にも分割されてしまうが、250kmを7時間掛けて運転されていた。先頭キハ22 292ほかの6連で、列車本数は、いまの三陸鉄道とほぼ同じだが、いかに輸送量が多かったかが分かる編成だ。北海道向けの寒冷地仕様のキハ22は、一部東北にも配置されていて、この盛岡区所属が南限のキハ22だった。

鉄道での復旧を果たしたリアス線の陸中山田駅は、地盤をかさ上げしたうえ、公共施設や商業施設とともに、オランダの風車を模した新しい駅舎が建設された。ホームは二面二線で跨線橋で結ばれている。乗車した「トレランス」は、ここでの交換はなく、数分間の停車だけだったが、ホームに下りて、定点対比をした。駅は同じ位置だが、高さも違い、配線も違うため、定点とは言えないが、背後の山並みが一致するように撮影した。

岩手県山田町は、津波に襲われた直後、町内から発生した火災は、たちまち瓦礫に燃え移り、三日後に鎮火した最大の津波火災となった。写真(ネットから転載)は、ちょうど上記の写真とほぼ同位置だが、「まるで爆撃を受けたよう」と、転載本には書かれていた。

旧山田線宮古~釜石の現状復旧、経営移管

JR東日本は、震災前の状態に戻す「現状復帰」を行い、その施設を沿線4市町に無償で譲渡した。現状と言っても、かさ上げした土地に線路を敷設したり、鉄橋も橋脚から造り直したりして、いずれも新線建設に等しい。枕木、レールも強化された。駅舎については、町の玄関として山田町、大槌町では町が建設した。また、宮古の車両基地もJR東日本が建設したほか、増備車両8両もJR負担で新造した。またJRから県、自治体に移管協力金として30億円が支払われた。三陸鉄道は、施設、車両への支出は無かった訳だが、今後の人件費、補修費が大きく膨らむこととなる。

 

 

 

 

 ふた旅 めぐる旅 東北編 ②」への2件のフィードバック

  1. 総本家青信号特派員殿
    キハ22の急行「陸中」の紹介ありがとうございます。今回、車窓から見た街の様子からだけでは、津波火災で全滅した街だと聞かなければわからないぐらい明るい雰囲気でした。また、「なぜオランダ?」と疑問に思いましたが、配られた「三鉄ガイド」によると、江戸時代前期 寛永20年(1643年)に山田湾に浮かぶ大島にオランダ船ブレスケン号が漂着し、大島は「オランダ島」と呼ばれるようになり、近年山田町とオランダ ザイスト市が姉妹都市関係となったことから、オランダ風車を模した新駅舎兼観光センターが建設されたそうです。
    私が宮古から集合場所の大槌駅に向かう際、乗車した5008Dが山田駅で5分間交換停車したので、ゆっくりと撮影していました。DCは36-105です。

    • 西村様
      コメント、ありがとうございます。たしかに、当日はいい天気で、車窓から見える光景は明るく、とても被災した沿線とは見えませんでしたね。山田町がオランダと縁があること、車内でガイドしていただいた冨手さんも語っておられました。載せてもらった写真は、「トレランス」とは逆の方向のもので、目新しいアングルでした。

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