街並みとともに ~京都のバス~  〈7〉

初めてのマイクロバス

いま京都市バスには、小型、中型、大型と、さまざまなサイズの車両が走っていますが、かつては、すべて大型車のみでした。初めて小型のマイクロバスが走ったのは、昭和51年4月、衣笠(現・立命館大学前)~ 原谷のM1系統でした。原谷は、しだれ桜で有名な原谷苑もありますが、京都東北部の山あいを開発した新興住宅地で、公共交通は一切ありませんでした。急勾配、狭隘区間もあり、大きな需要も見込めないところから、初めてのマイクロバスの導入となりました。Mはマイクロの頭文字で、市バス系統に英文字が付けられるのも初めてでした。昭和51年4月に、京都市バスに初めて登場したマイクロバスを使ったM1系統、車両は、京22あ‥17、‥18の2両で、いすゞBY31、北村ボディだった(昭和50年4月、以下同じ)。

立命館大学衣笠キャンパスの一角にあった衣笠操車場で、一般の大型バスと並ぶと、その大きさがよく比較できる。バスは当時の烏丸車庫(バス用)の所属だったが、間合い時間は衣笠操車場で過ごした。終点の衣笠に到着したM1系統、当時は一時間に一本程度、全区間走っても3.5km程度で、一両使用、一両予備だった。ワンマン表示があるが、当時は車掌が乗務していた。衣笠操車場のM1号系統、なお方向幕は行先のみの表示で、系統番号の表示は無かった。

初代のマイクロバスは代替されて、二代目として、いすゞP-MR112Fが冷房つきで昭和61年4月から走り始めた。現在では、M1系統は中型バスになり、径路の途中に立命館大学の新しい施設ができたこともあって、本数も平日午前には一時間に2本となり、一部は北大路バスターミナルからも走っている。

 街並みとともに ~京都のバス~  〈7〉」への3件のフィードバック

  1. 原谷へのバスは運行当初、人家も少なく、乗客は望むべくもなく、公共交通らしい採算度外視の新設と思われましたが、最近のM1号の営業係数(交通局のホームページに公表)は、98とか101とか、ほぼトントンで走っていることが分かりました。沿線人口の増加や、途中に立命館大学の施設ができたこと、さらに桜シーズンの観光客の入り込みもあったこと作用したのでしょう。

  2. 私もM1系統が走り始めた頃、何であんな辺鄙なところにバスを走らせるのかと疑問を感じていました。原谷は小学生の頃、よく遊びに出かけていて、よく言えば自然の豊かなところ、悪く言えば・・・でしたので。昭和40年代半ば頃まで、牧場があったほどです。
    ネットで現在の原谷の空撮を見て、家が立ち並び、大学の施設ができているとは、あまりの変わりように驚きました。
    原谷は戦後になって大陸からの引揚者が入植し、開拓したと聞いたことがあります。バスが越える峠道も、戦後に出来たようです。
    わら天神で西大路通りに出てくるM1系統のマイクロバスを何度か目撃しましたが、写真はありません。氷室道(蓮華谷道)を西へ入っていきましたが、今も同じコースを走っているのでしょうか。
    原谷川の終点を見ると、昔フナ釣りに行った池のほとりに転回場がありますが、M1系統が走り始めた頃は何もないところでした。ストリートビューを見ると、けっこう大きなバスが走っているようで、あの狭い道では運転が大変だろうなと思いました。
    衣笠操車場付近の写真も懐かしく拝見しました。看板のひとつひとつに見覚えがあり、かまぼこ車体の15や25系統が並んでいたものです。

  3. 地元の新聞のネットニュースを見ていますと、写真のような記事がありました。京都市バス唯一の英文の入る系統「M1」のナゾを解く内容です。そうか、マイクロバスでは無くなってから、もう30年ぐらい経過しているのですね。いまの世代にとって、たしかに「M」は謎に映ったのてしょう。

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